フィガロの結婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/08 03:24 UTC 版)
概要
ボーマルシェの戯曲
戯曲は喜劇『セビリアの理髪師』(第1部 1775年 / パイジエッロ(1782年)、ロッシーニ(1816年)がオペラ化した)、正劇『罪ある母』(第3部 1792年 / ミヨー(1964年)がオペラ化)とともに「フィガロ三部作」[1]と呼ばれている。『フィガロの結婚』は前作『セビリアの理髪師』の好評を受けての続編で、正式な題名は『狂おしき一日、あるいはフィガロの結婚』(La Folle journée, ou le Mariage de Figaro)。この戯曲は1784年にパリで初演され、前作以上の評判を得た。
封建貴族に仕える家臣フィガロの結婚式をめぐる事件を通じて、貴族を痛烈に批判しており[注 1]、たびたび上演禁止に遭った。特にルイ16世は「これの上演を許すくらいなら、バスティーユ監獄を破壊する方が先だ」と激昂したという。だが、この戯曲に魅せられた人々からの強い要請を無視できず、公演許可を出すに至った。このような危険な作品をオペラ化し、神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世のお膝元ウィーンで上演できた理由は不明だが、ダ・ポンテの自伝によれば、彼がうまく皇帝を懐柔して許可を得たことになっている。
モーツァルトのオペラ
オペラはウィーンのブルク劇場で1786年5月1日、モーツァルトが30歳の時に初演された。ある程度の好評を得たが、原作の貴族批判はおおむね薄められているとはいえ危険視する向きもあり、早々にビセンテ・マルティーン・イ・ソレル作曲によるオペラ『椿事』(Una cosa rara)に差しかえられてしまった。
こうしてウィーンでは期待したほど人気を得られなかったものの、当時オーストリア領だったボヘミア(現在のチェコ)の首都プラハの歌劇場で大ヒットした。作曲者も招かれて有意義な時を過ごし(この時に交響曲第38番『プラハ』K.504を初演している)、新作オペラの注文までもらえた。これが翌年初演した『ドン・ジョヴァンニ』K.527である(同じくダ・ポンテの台本による)。
日本初演は1941年6月に東京音楽学校で行われた[2]。舞台初演は1952年[3]。
注釈
- ^ フィガロの独白「貴方(伯爵)は豪勢な殿様ということから、御自分では偉い人物だと思っていらっしゃる! 貴族、財産、勲章、位階、それやこれやで鼻高々と! だが、それほどの宝を獲られるにつけて、貴方はそもそも何をなされた? 生れるだけの手間をかけた、ただそれだけじゃありませんか! おまけに人間としても平々凡々(以下略)」は世襲政治家や貴族への揶揄としてたびたび引用される。
- ^ 初版は新全集版は1973年に2巻組で刊行され、日本でも多くの大学・図書館が所蔵しているが、3~4幕の自筆スコアが第二次大戦後ポーランドで管理されていたため校訂に使用出来ないという問題が解消されなかった。ベルリンの壁崩壊の後、本格的な改訂とともに縮刷合本化されたスタディ・スコアが2010年刊行された。第3幕の伯爵夫人のアリアはテンポ指示が Andante から Andantino に変更されるなどの違いがあるほか、異稿も部分的なものながら初演前のヴァージョンまで網羅し、1972年版より8曲増えている。
出典
- ^ "The Figaro Trilogy: The Barber of Seville, The Marriage of Figaro, The Guilty Mother", ISBN 0199539979
- ^ 昭和音楽大学オペラ研究所 オペラ情報センター
- ^ 昭和音楽大学オペラ研究所 オペラ情報センター
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