ビセンテ・マルティーン・イ・ソレルとは? わかりやすく解説

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ビセンテ・マルティーン・イ・ソレル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/16 21:04 UTC 版)

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この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の)はマルティン第二姓(母方の)はソレールです。
ビセンテ・
マルティン・イ・ソレール
Vicent Martín i Soler
基本情報
生誕 1754年5月2日
スペイン帝国バレンシア
死没 (1806-01-30) 1806年1月30日(51歳没)
ロシア帝国サンクトペテルブルク
ジャンル 歌劇、バレエ音楽
職業 作曲家

ビセンテ・マルティン・イ・ソレール(Vicente Martín y Soler, 1754年5月2日 - 1806年1月30日)はバレンシア出身の18世紀の舞台音楽の作曲家。今日ではほとんど無名になっているものの、生前は歌劇やバレエ音楽の作曲家として著名で、とりわけオペラ・ブッファ作曲家として、モーツァルトと並び立つ存在として好意的に評価されてきた。近年になって再評価が進みつつあり、歌劇の上演及び録音が行われるようになった。

ボローニャに留学してジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニ師に音楽を師事。最初のオペラ《騙された先生 Il tutore burlato 》(1775年)は、ジョヴァンニ・パイジエッロの《フラスカーティの女 La frascatana 》(原作はフィリッポ・リヴィーニの戯曲)の改作であった。マルティーン=イ=ソレルはその台本をイタリア語からスペイン語に改め、サルスエラ《マドリッドの女、または騙された先生 La Madrileña o el tutor burlado 》として、1778年マドリッドで初演を行なった。

1777年ナポリを訪れ、最初のバレエ音楽サン・カルロ劇場のために作曲する。この頃は振付師シャルル・ルピックの協力を得て、以下の4つのバレエ・ダクションを作曲した。

  • ラ・グリゼルダ La Griselda1779年、アポストロ・ゼーノの台本に由来)
  • サビーニ族の女たちの陵辱 I ratti sabini1780年
  • 麗しのアルセーネ La bella Arsene1781年
  • タマシュ・クリ汗 Tamas Kouli-Kan1781年、ヴィットリオ・アメデオ・チーニャ=サンティの戯曲に基づく)

また、2つの中間的な性格のバレエ(1778年の《ペルシャの花嫁 La sposa persiana 》と、ボーマルシェの戯曲に基づく1781年の《セビリアの理髪師 Il barbiere di Siviglia 》)も手懸けている。

ナポリでは、宮廷脚本作家のルイージ・セリオの力を得て、2つのオペラ・セリア《イフィジェニア Ifigenia 》(1779年)と《イペルメストラ Ipermestra 》(1780年)を作曲している。

1785年ウィーンに移り、ロレンツォ・ダ・ポンテの台本に作曲して国際的な大成功を収める。特に以下の一連のコミック・オペラが特に有名である。

  • 椿事 Una cosa rara1786年、原作:ルイス・ベレス・デ・ゲバラの戯曲「山上の月 La luna de la sierra 」)
  • ぶっきらぼうな善人 Il burbero di buon cuore (1786年、カルロ・ゴルドーニの戯曲)
  • ディアナの樹 L'arbore di Diana1787年

マルティーン=イ=ソレルは、オペラ《椿事》によってワルツをウィーンに取り入れた人物であるとも見なされている。また《椿事》の宴の場面は、モーツァルトが《ドン・ジョヴァンニ》(1787年)の終幕の参考にし、旋律を引用している。さらに、モーツァルトは《ぶっきらぼうな善人》の挿入曲としてアリア「誰が知るでしょう、いとしい人の苦しみを」(K.582)と「私は行きます、でもどこへ」 (K.583)を1789年に作曲している。

1788年ロシア宮廷に招かれてサンクトペテルブルクに行き、エカチェリーナ2世の台本による《不遇の英雄コスメトヴィチ》(1789年)などのロシア語オペラと、シェイクスピアの『じゃじゃ馬馴らし』に基づく《礼儀正しい気紛れ娘 La capricciosa corretta 》(台本ダ・ポンテ、1795年)や《村祭り La festa del villaggio 》(1798年)などのイタリア語オペラを完成させた。

サンクトペテルブルク在住中に、《見棄てられたディドー Didon abandonée 》(1792年)、《クピドとプシュケー Amour et Psyché 》(1793年モリエールコルネイユキノー原作)、《タンクレディ Tancrède 》《ポリオルセートの帰還 Le retour de Poliorcète 》(1799年)といった数々の悲劇バレエを作曲した。

1806年、ロシア宮廷作曲家に在職中に急逝した。

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