スター誕生! 公開録画と収録場所

スター誕生!

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/21 10:29 UTC 版)

公開録画と収録場所

原則として毎月2回、東京都内にある後楽園ホールで2週分収録して、一般観覧客を招いて行なわれた。後楽園ホールがプロレスやプロボクシングなどの他興行や、メンテナンスで使用できない場合は、調布グリーンホールなど、郊外の公会堂を使用していた。

また、年に3、4回は、地方で公開録画も行なわれた。現地の日系人が出場してハワイ大会も行われた。1975年沖縄海洋博会場からも公録が行われた。また、きよし単独時代はキャンプ形式で1度だけ山中湖のキャンプ場で公録を行い放送した(1982年8月1日放送分)。

セットの変遷

萩本・谷&タモリ時代
上部に丸みを帯びた長方形の連なった模様の飾りが配置され、中央部にタイトルロゴがある(時期により金色の日本地図も併設されていた)。また、飾りの中には黄色(谷&タモリ時代は水色)のパネルが埋め込まれ、このパネルには提供スポンサー名が印刷されていた。長方形の飾りの外側には丸みを帯びた左右対称のL型の板があり、双方に番組シンボルマークが飾られていた(谷&タモリ時代以降はマークの色彩が変更、バックが銀色で竪琴と獅子が青系となった)。飾りの下には大階段があり、挑戦者がイントロと共にスタンドマイクの前に駆け下りてくる。階段の両脇には萩本時代は大きな手摺りと造花が飾られていたが、谷&タモリ時代には撤去された。ビッグバンドの配列は、階段の右半分は右からグランドピアノ(下段)・女性コーラス(上段)→ギター系(下段)・女性コーラスの待機場所→アコーディオン(横森良造)→チューブラーベル(上段、コーラスの待機場所とアコーディオンは1978年からシンセサイザー用のスペースになる)。1979年 - 80年にはギター系の下に電気ピアノが入ることもあった。左半分はドラムスブラスで、指揮者は左半分側にいた。また、1970年代後半にはドラムスの下にラテンパーカッションが入った(配列は後楽園ホールでの収録の場合を基準にしている。地方の公会堂では配列が逆になっていた)。舞台の上手(右側)には、番組出身者の写真が飾られていた。ちなみに、野外での収録(前述のハワイ大会や沖縄海洋博等)の際には階段とビッグバンドのない簡素なセットになり[注 18]、バンドは別の場所で演奏していた。挑戦者5人時代、舞台下手にある電光掲示板の上部には、左側はタイトルロゴ(両代共通)、右側は萩本時代は放送回数、谷&タモリ時代は収録場所のある都市名(たとえば後楽園ホールなら「東京」)が掲げられていた。電光掲示板のあるセットは、決戦大会時にはボードが伏せられ、挑戦者の番号とネームプレートとパトライトのある透明な(時期により色付き)ボックスとパイプ椅子が撤去された。ボードは、7人時には上段から「第」「xx」「回」「決」「戦」「大」「会」、5人時には「第xx回」「決」「戦」「大」「会」と記されていた。
坂本時代
ビッグバンドは中央から左寄りのピット内に収められ、右側に階段がある。バンドの配列は、中央側がグランドピアノ→ドラムス(下段)・シンセサイザー→ギター系(中段)・ラテンパーカッション→女性コーラス(上段)、左側はブラスで、その手前に指揮者がいた。下手・上手と階段上部にはカーテン付きの衝立(階段上部はやや大型。上手には提供スポンサー名が掲げられている)。背景は通常は青系である。
きよし単独時代
ビッグバンドは坂本時代と同様にピット内に収められているが、萩本・谷&タモリ時代のものと似ている。バンドの配列は、階段の右半分は右からグランドピアノ→シンセサイザー(下段)・ギター系(中段)・女性コーラス→ラテンパーカッション(上段)、左半分はドラムスとブラスで、その手前に指揮者。下手・上手にはカーテン付きの衝立。その上に提供スポンサー名が掲げられている。背景は通常は青系であるが、結果発表の時に巨大なパネルが登場する(決戦大会時にはセットの一部になり、結果を見て「合格」なら星型のランプが点滅する)。また、背景を隠すため、タイトルロゴが印刷された左右両開きのスライド式の板もある。
やすきよ時代
中央の階段がなくなり、オーケストラピットが中央に集中し、その代わりに左右に階段が設けられた。また、『スター誕生!』のロゴの星の部分に電飾が埋められた。提供スポンサーは前期は1社ずつ両方のL型の板にパネルで張られ、後期は右側に集約されていた。
審査員席
萩本時代の7人時の途中までと坂本時代、きよし単独時代の放送時間短縮後は客席の最前列で(特設のテーブルがあった)、それ以外は舞台の上手にて審査していた。
ちなみに(どの司会者の時代の話かは不明だが)、『スタ誕』出身者がデビューする時[注 19]は、本人の芸名とデビュー曲のタイトルを大きな文字(一文字数十cmほどの大きさ)で作ったセットが客席に組まれ、その前で歌うのがお約束だった[14]

出場者

デビューした歌手とその他合格者

  • ここでは、決戦大会の審査を経てデビューした歌手とその他決戦大会合格者を記述する。
  • デビューした歌手(88組92人[7])(下の西暦はデビュー年)
1972年
森昌子、三橋ひろ子、コスモス(立井雅子・田村悦子)、藤本哲也
1973年
南陽子、鷲と鷹(小林茂・渋谷弘)、桜田淳子、長田たいじ、池田正臣、山口百恵、松下恵子、すみあきくん、最上由紀子、シルビア・リー、宮本賢治、藤正樹、おがた愛、菅原昭子、堺淳子、緑川真、城みちる
1974年
松田新太郎伊藤咲子しのづかまゆみ、石江理世、小林美樹、米永透、梶たか子、麿こうじ、渡辺秀吉、柴葉子
1975年
片平なぎさ、小川真代、黒木真由美岩崎宏美目黒ひとみ
1976年
新沼謙治北村優子神保美喜朝田のぼる、横本メイ、ピンク・レディー増田恵子根本美鶴代)、浦部雅美
1977年
神田広美清水由貴子久木田美弥谷ちえ子、ものえ和恵、梓真由美
1978年
岩城徳栄渋谷哲平石野真子、豊田清、大橋恵里子金井夕子、北野玲子
1979年
ポップコーン(加本ひろの・加本あつの)、川崎公明、菅沢恵子、井上望
1980年
北原裕、柏原よしえ甲斐智枝美、鯨井ゆかり、杉田愛子
1981年
矢野良子水谷大輔
1982年
中野美紀小泉今日子中森明菜水谷絵津子ルー・フィン・チャウ
1983年
堤久美子、宮原巻由子、松尾久美子松本明子吹田明日香河上幸恵太田貴子、愛田悦子、高橋美枝、小椋幸子、滝里美
1984年
佐藤佳代(岡田有希子)、田中さとみ、鈴木ゆかり
1985年
宮野比呂美

(詳細は下記のデビュー歌手の詳細を記した表を表示して参照)

以下は決戦大会のその他合格者。

  • 中尾浩美は、第15回決戦大会(1975年)で合格。
  • 久保田篤は、第33回決戦大会(1980年)に出場したが番組を通してのソロデビューはせず。後にいいとも青年隊の一員として「恋の爆弾ストリート」でデビューした。
  • 北島美智代は、1980年に7週連続勝ち抜きグランドチャンピオンとなったが、当番組終了までデビューには至らず。終了後の1985年11月にテイチクレコードからシングル「てれぱしいください」でデビュー。翌1986年9月、セカンドシングル「夏のブランコ」をリリースするも、その後活動なし。

決戦大会でスカウトされなかった出場者

  • マッハ文朱は、1972年12月の決戦大会に出場(この回の合格者に山口百恵がいた。その後山口とは『欽ちゃん一座正月公演』で顔を合わせた)。女子プロレスラーとしてデビュー後、レコードデビューも果たす。
  • 中真理子はこの回の合格者に梶たか子(最優秀賞)、片平なぎさ、小林美樹がいた。その後『全日本歌謡選手権』に挑戦、1週落ちるものの審査員の裁量で再挑戦の機会が与えられ、10週連続で勝ち抜いた。後にゲスト出演。
  • 水越けいこは、1974年7月17日の第11回決戦大会に出場(この回の合格者に岩崎宏美(最優秀賞)、黒木真由美がいた)したことがきっかけでサンミュージックに所属。芸能界入りした後、紆余曲折を経て1978年6月21日にソロ歌手としてデビュー。
  • 内田春菊は、井上望が出場した回の決戦大会に出場(井上はその回の最優秀賞)。1984年に漫画家としてデビュー。
  • トシ・カプチーノは、内田と同じく井上望が出場した回の決戦大会に出場。
  • 本田美緒は、1981年の第35回決戦大会に出場(この回の合格者は小泉今日子、中野美紀など)。翌年、第24回YAMAHAポプコンでグランプリとなり歌手デビューし、世界歌謡祭にも出場。
  • 井上あずみは、14歳の頃に決戦大会に出場。1983年に歌手デビューした後、スタジオジブリ製作の長編アニメ『天空の城ラピュタ』や『となりのトトロ』のテーマソングなどの歌唱を担当。
  • 佐久間レイは、二度決戦大会に進出もスカウトされず。最初の挑戦である第36回決戦大会(この回の最優秀賞は河上幸恵)では審査員奨励賞を受賞。2度目の挑戦で第38回決戦大会に出たことがきっかけで1982年に芸能界デビュー。当初はアイドルとして活動したが、その後1985年に声優に転身。
  • 村越裕子(むらこし・やすこ)は、佐久間の二度目の挑戦である第38回決戦大会に出場(この回の最優秀賞は中森明菜)。
  • 新井由美子は、1982年8月1日の第42回決戦大会に出場(この回のグランドチャンピオンはルー・フィン・チャウ)。翌1983年にホリプロタレントスカウトキャラバン東京大会に出場したことでスカウトされ芸能界入り。
  • 本田美奈子は、1982年の第44回決戦大会に出場。テレビ予選では柏原よしえの『ハロー・グッバイ』を歌唱して合格。決戦大会では松田聖子の『ブルーエンジェル』を歌唱した。翌1983年に原宿でスカウトされて芸能界入りし、1985年に歌手デビュー。
  • 徳永英明は、1982年の第44回決戦大会に出場(本田と同じく出場した回の合格者に松本明子がいた)。なお本田・徳永・松本は同じ回のテレビ予選にも出場し揃って合格した。徳永は、決戦大会で山下達郎の『RIDE ON TIME』を歌唱。その後徳永は紆余曲折を経て1986年1月21日に歌手デビュー。
  • 金子美香は、1983年の大会に出場したことがきっかけで渡辺プロダクションにスカウトされて芸能界入りし、1987年4月21日に歌手デビュー。

テレビ予選止まりの出場者

  • 沼尾健司は番組初(第1回放送)の合格者で、第1回チャンピオンとなった。しかし決勝大会の出場は断念した。元内山田洋とクール・ファイブボーヤ
  • 日野美歌は、中学1年生の終わり頃に『スタ誕』に挑戦し、予選会でペドロ&カプリシャスの『五番街のマリーへ』を歌い通過。1976年5月9日放送のテレビ予選では、歌唱曲を林寛子の『ほほえみ』に変更して出場したが敗退[19](この時のテレビ予選は全員失格)。その後1982年に歌手デビュー。
  • 寺島まゆみは、テレビ予選で敗退。その後新宿でスカウトされてオーディションを受けて合格し、1980年に日活ロマンポルノ映画で女優デビュー。
  • 柳葉敏郎は、18歳の頃に1979年9月23日放送のテレビ予選に出場するが敗退(この時のテレビ予選は全員失格)。これがきっかけとなり上京して芸能界入り。1984年6月25日に一世風靡セピアのメンバーとして歌手デビューし、並行して俳優としても活躍。
  • 渡辺桂子は、高校生の頃にテレビ予選に出場し、それがきっかけで芸能プロダクションゴールデンミュージックプロモーションの市村義文社長にスカウトされ1984年3月21日に歌手デビュー。

その他

  • 池田広子は予選合格者には名を連ねた。その後ホリプロに所属。
  • 古手川祐子は番組に何度も応募したが、別のオーディションを受けチャンピオンになり女優デビューした後に『スタ誕』の書類選考を通過した。
  • 田中美佐子は、番組に応募したが、返ってきたのは公開録画の観覧案内だったという。短大時代に劇団ひまわりに入団し、卒業後の1981年に女優デビュー。
  • 野沢直子は番組に応募したが、一次審査で不合格だった。1983年に芸能界入りし、お笑いタレントとして80年代に活躍した。
  • 大江千里は番組に応募したが、予選会で不合格だった。最終審査まで進んだかは不明。ちなみに松本明子とは偶然にもデビューが同じ日(1983年5月21日)だった(音楽雑誌「シンプジャーナル」の記事に掲載されていた)。
  • 河合奈保子は番組に応募するも、書類選考の段階で選外となった。1979年に別の新人発掘コンテストで優勝し、1980年6月1日に歌手デビュー。
  • ASKAは14歳の時(1972年)に応募し予選会で「真似をするな個性を出せ」という前説に考え抜いた末、イントロでバック転をするという奇行に出たが歌い出しに間に合わず失格。高校の同級生であるチャゲと音楽ユニットのチャゲ&飛鳥を結成し、1979年8月25日に歌手デビュー。
  • 甲本ヒロトは1981年5月放送回で、バンド『ラウンド・アバウト』としてオープニングアクトで登場。これがテレビ初出演となる。その後真島昌利らと結成したバンド『THE BLUE HEARTS』のヴォーカルとして1987年5月1日にメジャーデビュー

注釈

  1. ^ また、1960年代まではスターは映画から生まれることが多かったが、1970年頃に映画界が斜陽になったことも理由。
  2. ^ 金谷によると、「それまでのオーディション番組はゴールデンタイムでの放送がほとんどだったが、どれも長続きしなかった」とのこと。
  3. ^ 萩本によると『スタ誕』開始前のある日、週刊誌に「コント55号の2人は仲が悪い」などと書かれたことで、コンビ出演の舞台などでお客さんの笑いが取りづらくなった。「しばらく個別の仕事に力を入れよう」と決めた頃、『スタ誕』の司会の話が来たとのこと[5]
  4. ^ 単独司会未経験なため断ろうとする萩本に、番組側は「アシスタントを付けるから、(出場する)素人の味方になってやって」などと口説き落とした[5][2]。萩本曰く「初めての司会だし上手くいかないかも。きっと3ヶ月ぐらいで番組をクビにされるだろう」と予想した上で引き受けたとのこと[5]
  5. ^ 一部のマスメディアでは、「石野はアシスタント」と位置づけられている[6]
  6. ^ 本人は後年、「出場者の緊張を少しでもほぐしてあげられたら良かったのですが、私には難しかった。合格されなかった方にどういう言葉をかけたらいいか分からなかったし、全員が合格できるわけではないので、毎回胸が締め付けられる思いでした」と語っている。
  7. ^ その収録の直前、阿久がとある賞にノミネートされた影響で時間の都合がつかなくなり、急遽都倉にオファーされた[5]
  8. ^ プロデューサーの金谷は後年「数百人の出場者相手にどんな曲でも横森さんがたった1人でピアノで伴奏してくれた。予選会が成立したのは横森さんのおかげです」と感謝の言葉を述べている[4]
  9. ^ 萩本時代では、この直前に萩本が必ず「点数が少ないとすぐ出てしまいます。」と発言した。
  10. ^ ただしビールのCMは「本生」のみ夏だけの放送(当時ビールは夏の商品とされた)、清涼飲料水三ツ矢サイダーバヤリース)に限定されていた。
  11. ^ 渡辺プロ渡辺美佐副社長(当時)の実家が経営。
  12. ^ 神保が合格した第15回決戦大会は他の合格者(久木田美弥、朝田のぼる、浦部雅美)も1社のみのスカウトであった。
  13. ^ 1993年に放送された同窓会では、「私だけ『お笑いスター誕生!!』という雰囲気がしてならない」と言って事実上謝罪したが、当時司会をしていた西川きよしは「いいがなあ!」とツッコミを入れて慰めていた。
  14. ^ 1980年頃までは収録に2インチVTRを使用していたためで、操作が煩わしく、かつビデオテープは保存に場所をとるため、一度放送された後は上書き消去されたり、他番組に使い回されたりしていた。さらに視聴者参加番組という宿命上、著作権法肖像権等の絡みで番組の資料保存が大きく制約されていた。決戦大会のビデオテープが保存されるのは第14回以降である。
  15. ^ なお翌1月4日には、当時マッハがレギュラー出演していた『オールスター90分』(フジテレビ系列)にも山口百恵が出演、2日連続での共演となった。
  16. ^ 「ウルトラクイズ」のロゴは『アメリカ横断ウルトラクイズ』と同じだったが、「ウルトラハット」や「早押しテーブル」などの『ウルトラクイズ』グッズは使用しなかった。
  17. ^ 岩崎宏美の時はデビューして間もない岩崎良美が出演したが、良美は歌手であるため、「自分の持ち歌は歌わない」などのハンディキャップが与えられた。
  18. ^ 400回記念のハワイ大会では簡易型の階段が設けられた。
  19. ^ 決戦大会の審査でのスカウトを経てデビューした歌手のみ。
  20. ^ 放映は9月17日
  21. ^ 放映は8月11日
  22. ^ 女性ヴォーカルユニット。詳しくはサーカスのメンバー・叶正子の欄を参照。
  23. ^ 放映は4月3日
  24. ^ 中尾はカバーシングルで、元々は槇みちるのレコードのB面曲。
  25. ^ 森まどかの「ねえ・ねえ・ねえ」のカバー。
  26. ^ 放映は12月6日
  27. ^ 愛知県岡崎市出身、1984年出演当時の年齢は19歳。モデルの鈴木ゆかりとは別人。
  28. ^ そんな対応でも岩崎宏美はどこで会っても「欽ちゃん!!」と声をかけてくれたという。
  29. ^ プロダクションやレコード会社がプラカードを挙げてスカウトの意思を示し、入札対象となる合格者の所属交渉権を得るシステム。
  30. ^ 当時の社名はホリプロダクションであり、1990年に現社名に改称。
  31. ^ 放送枠の確保に高橋信三(当時のNET系準キー局・毎日放送の社長)が動き、再三にわたって調整した経緯があり、それ以上NETやMBSに無理を頼めなくなったことや、当時の音楽・バラエティ番組では芸能事務所単位で表裏出演を避ける慣習もあり、それまでの井原との個人的な友情を犠牲にしてまで、経営判断としてこうした要求をせざるを得なくなったという[23]
  32. ^ 実際にはこの間もナベプロは日本テレビとは完全に絶縁せず、井原が関与していなかった番組や読売テレビなどの系列局制作番組には出演を継続させていたほか、子会社の渡辺企画はドラマを共同制作していた。また、ニューミュージック部門「NON STOP」に所属する歌手にも出演を継続させていた。
  33. ^ 司会者は『スタ誕』の二代目司会者だったタモリ。
  34. ^ 読売新聞』1989年8月5日朝刊第32面(『読売新聞縮刷版』1989年8月号p.212)および夕刊第12面(同前p.224)のテレビ番組表に放送予定記載あり。
  35. ^ 収録日は8月1日。「WEEKLY CHASER」(『ORICON WEEKLY』1989年8月7日号)p.13にゲスト出演者・Winkの「出演」予定記載あり。
  36. ^ NEWSポストセブンの記事では、「88組92人」としている[7]
  37. ^ あまちゃん』(NHK)では、小泉が演じた天野春子の少女時代の回想(有村架純)の中で『君でもスターだよ!』と題する、当番組へのオマージュともとれる架空のオーディション番組のシーンがあった。

出典

  1. ^ 下野新聞』下野新聞社、1982年10月24日 - 1983年4月3日のラジオ・テレビ欄。 
  2. ^ a b c d e f g h 週刊ポスト10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度前編p17-24
  3. ^ 志賀信夫『テレビヒット番組のひみつ : 「ジェスチャー」から「おしん」まで』日本放送出版協会、1984年8月1日、179 - 182頁。NDLJP:12275392/93 
  4. ^ a b c d 週刊ポスト10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度後編より金谷勲夫のインタビューp150-152
  5. ^ a b c d e f g h 「「スター誕生!」あの熱狂をもう一度」『週刊ポスト』後編、2021年10月29日、148-149頁。  - 萩本欽一と都倉俊一との対談
  6. ^ a b 週刊ポスト10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度・後編より石野真子のインタビューp145
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao 「石野真子が振り返る『スター誕生!』 プラカードが上がった時の感激!」より。”. NEWSポストセブン (2021年10月19日). 2021年10月24日閲覧。
  8. ^ 週刊ポスト10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度後編p150
  9. ^ 【昭和のことば】「スター誕生!」で生まれた萩本欽一の代表的なギャグ「バンザーイ、なしよ」(昭和46年)”. zakzak. 夕刊フジ (2021年3月31日). 2021年6月7日閲覧。
  10. ^ 中森明菜『本気だよ -菜の詩・17歳-』小学館、1983年。ISBN 4-09-363121-2 
  11. ^ 『テレビ番組の40年』、356頁。
  12. ^ YouTube井上あずみ】デビュー前14歳の時に出演した「スター誕生! 」のお宝映像!!
  13. ^ 萩本欽一×都倉俊一『スタ誕』対談 司会者と審査員は険悪だった?”. NEWSポストセブン. 小学館 (2021年10月22日). 2021年10月22日閲覧。
  14. ^ 週刊ポスト10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度後編p152
  15. ^ Wikipediaの目黒ひとみの記事より。
  16. ^ Wikipediaの新沼謙治の記事より。
  17. ^ Wikipediaの清水由貴子の記事より。
  18. ^ Wikipediaの本人のページより。
  19. ^ 週刊ポスト10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度・後編より日野美歌のインタビューp147
  20. ^ 週刊ポスト10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度・後編p151
  21. ^ 放送ライブラリー. “検索結果 スター誕生!〔100〕”. 2024年1月28日閲覧。
  22. ^ 軍司貞則『ナベプロ帝国の興亡』文藝春秋、1992年、274頁。 
  23. ^ 松下治夫『芸能王国渡辺プロの真実。 : 渡辺晋との軌跡』青志社、2007年7月[要ページ番号]
  24. ^ 『ナベプロ帝国の興亡』、277頁。
  25. ^ a b 週刊TVガイド 1983年7月29日号 p.25「REPORT・名物番組『スター誕生!』が九月で一時終了」
  26. ^ 読売新聞芸能部『テレビ番組の40年編』日本放送出版協会、1994年、360頁。ISBN 4-14-080192-1 
  27. ^ =VAP=『スター誕生! CD&DVD-BOX』2011年3月16日発売決定! - VAPによる紹介ページ
  28. ^ a b c d e 河北新報』1971年10月3日付朝刊、テレビ欄。
  29. ^ a b 福島民報』1982年4月4日、1983年9月25日付朝刊、テレビ欄。
  30. ^ 『福島民報』1971年10月9日、1972年3月25日付朝刊、テレビ欄。
  31. ^ 『福島民報』1972年4月2日、1973年9月30日付朝刊、テレビ欄。
  32. ^ 『福島民報』1973年10月7日、1981年9月27日付朝刊、テレビ欄。
  33. ^ 『福島民報』1981年10月4日、1982年3月28日付朝刊、テレビ欄。
  34. ^ a b c d 日刊スポーツ』1976年1月4日付テレビ欄。
  35. ^ 信濃毎日新聞』1977年4月3日、1981年9月27日付、テレビ欄。
  36. ^ 『信濃毎日新聞』1981年10月3日、1983年10月1日付、 テレビ欄。
  37. ^ a b 『北國新聞』1983年9月25日付朝刊、テレビ欄。



スター誕生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/26 20:23 UTC 版)

スター誕生(スターたんじょう)、あるいはスタア誕生は以下のいずれかを指す。




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