スター誕生!
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/21 10:29 UTC 版)
スタッフ
(1980年時点のもの。萩本が降板する頃)
- 監修:阿久悠
- 構成:河村シゲル、太田イサム、源高志、鈴木しゅんじ、詩村博史 / 萩本欽一
- 振付:土居甫
- アコーディオン:横森良造
- 編曲:高見弘
- チーフプロデューサー:池田文雄
- プロデューサー / ディレクター:金谷勲夫、清水和夫、宮嶋章、吉岡正敏、森下泰男、長谷川賢一 ほか
- 製作:日本テレビ
なお、地方収録の場合は各ネット局が制作・技術協力として参加した。
ネット局
![]() | この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2019年8月) |
系列は放送終了時・ネット終了時のものを記載。
放送対象地域 | 放送局 | 系列 | 放送時間 | 備考 |
---|---|---|---|---|
関東広域圏 | 日本テレビ | 日本テレビ系列 | 日曜 11:00 - 11:55 日曜 11:00 - 11:45 |
基幹・製作局 |
北海道 | 札幌テレビ | 1972年3月までフジテレビ系列とのクロスネット局 ただしFNSのみ加盟でFNNは非加盟 | ||
青森県 | 青森放送 | 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 |
日曜 11:00 - 11:55(放送開始時点)[28] | 1975年3月まで日本テレビ系列単独加盟局 |
岩手県 | 岩手放送 | TBS系列 | 日曜 11:00 - 11:55(放送開始時点)[28] | 現・IBC岩手放送 1975年9月28日まで |
テレビ岩手 | 日本テレビ系列 | 1975年10月5日から 1980年3月までテレビ朝日系列とのクロスネット局 | ||
秋田県 | 秋田放送 | 日曜 11:00 - 11:55(放送開始時点)[28] | ||
宮城県 | ミヤギテレビ | 日曜 11:00 - 11:55(放送開始時点)[28] 日曜 11:00 - 11:45(1982年4月から)[29] |
1975年9月までNETテレビ系列とのクロスネット局 | |
山形県 | 山形放送 | 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 |
日曜 11:00 - 11:55(放送開始時点)[28] | 1980年3月まで日本テレビ系列単独加盟局 |
福島県 | 福島中央テレビ | 日本テレビ系列 | 土曜 14:00 - 14:55(1971年10月 - 1972年3月)[30] 日曜 15:30 - 16:25(1972年4月 - 1973年9月)[31] 日曜 10:30 - 11:25(1973年10月 - 1981年9月)[32] 日曜 11:00 - 11:55(1981年10月 - 1982年3月)[33] 日曜 11:00 - 11:45(1982年4月から)[29] |
1981年9月までテレビ朝日系列とのクロスネット局 |
山梨県 | 山梨放送 | 日曜 11:00 - 11:55(1976年1月時点)[34] | ||
新潟県 | 新潟総合テレビ | フジテレビ系列 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 |
日曜 10:30 - 11:25(1976年1月時点)[34] | 現・NST新潟総合テレビ 1981年3月まで |
テレビ新潟 | 日本テレビ系列 | 1981年4月4日から | ||
長野県 | 信越放送 | TBS系列 | 日曜 11:00 - 11:55(1976年1月時点)[34] 日曜 10:30 - 11:25(1977年4月3日 - 1981年9月27日)[35] 土曜 13:30 - 14:25(1981年10月3日 - 1983年10月1日)[36] |
|
静岡県 | 静岡放送 | 日曜 10:00 - 10:55(1976年1月時点)[34] 日曜 10:30 - 11:25(1977年4月 - 1979年3月) 土曜 10:15 - 11:10(1979年4月 - 6月) |
1979年6月まで | |
静岡第一テレビ | 日本テレビ系列 | 1979年7月1日開局から | ||
富山県 | 北日本放送 | 日曜 11:00 - 11:45(1983年9月最終回時点)[37] | ||
石川県 | 北陸放送 | TBS系列 | 日曜 10:00 - 10:55 日曜 10:00 - 10:45(1982年4月から) |
1976年4月から |
福井県 | 福井放送 | 日本テレビ系列 | 日曜 11:00 - 11:45(1983年9月最終回時点)[37] | |
中京広域圏 | 名古屋放送 | 日本テレビ系列 NETテレビ系列 |
現・名古屋テレビ放送(メ〜テレ) 1973年3月25日まで | |
中京テレビ | 日本テレビ系列 | 1973年4月1日から 中京広域圏のネットワーク整理のため | ||
近畿広域圏 | よみうりテレビ | |||
鳥取県 ↓ 鳥取県・島根県 |
日本海テレビ | 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 |
当初の1年間(1972年9月17日の第4回決戦大会まで)は日本テレビ系列単独加盟局で鳥取県のみの放送。翌週の9月24日放送分から島根県にもエリアを拡大。 | |
山口県 | 山口放送 | 1978年9月まで日本テレビ系列単独加盟局 | ||
広島県 | 広島テレビ | 日本テレビ系列 | 1975年9月までフジテレビ系列とのクロスネット局 | |
徳島県 | 四国放送 | |||
香川県 ↓ 香川県・岡山県 |
西日本放送 | 1983年3月までの放送免許エリアは香川県のみ。しかし岡山県の南部を中心に視聴可能エリアは広かった。実際に西日本放送の制作協力により岡山でも公開収録が行われ、大橋恵里子が合格しデビューしている。詳しくはこちらを参照。 | ||
愛媛県 | 南海放送 | |||
高知県 | 高知放送 | |||
福岡県 | 福岡放送 | |||
長崎県 | テレビ長崎 | フジテレビ系列 日本テレビ系列 |
当初は平日に遅れネット(日時不明) | |
熊本県 | テレビ熊本 | フジテレビ系列 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 |
1982年3月28日まで | |
くまもと県民テレビ | 日本テレビ系列 | 1982年4月4日から | ||
大分県 | テレビ大分 | フジテレビ系列 日本テレビ系列 テレビ朝日系列 |
日曜 10:55 - 11:50(1982年3月まで) 日曜 11:00 - 11:45 |
1976年4月4日から |
宮崎県 | テレビ宮崎 | |||
鹿児島県 | 南日本放送 | TBS系列 | 日曜 11:00 - 11:55(1976年3月まで) 日曜 10:30 - 11:25(1977年4月 - 1982年3月) 日曜 11:00 - 11:45(1982年4月 - 9月) |
1982年9月まで |
鹿児島テレビ | フジテレビ系列 日本テレビ系列 |
最後の1年間のみ | ||
沖縄県 | 沖縄テレビ | フジテレビ系列 | 日曜 12:00 - 12:55(1973年4月 - 1978年9月) 日曜 10:30 - 11:25(1978年10月から) |
1973年4月1日から |
脚注
注釈
- ^ また、1960年代まではスターは映画から生まれることが多かったが、1970年頃に映画界が斜陽になったことも理由。
- ^ 金谷によると、「それまでのオーディション番組はゴールデンタイムでの放送がほとんどだったが、どれも長続きしなかった」とのこと。
- ^ 萩本によると『スタ誕』開始前のある日、週刊誌に「コント55号の2人は仲が悪い」などと書かれたことで、コンビ出演の舞台などでお客さんの笑いが取りづらくなった。「しばらく個別の仕事に力を入れよう」と決めた頃、『スタ誕』の司会の話が来たとのこと[5]。
- ^ 単独司会未経験なため断ろうとする萩本に、番組側は「アシスタントを付けるから、(出場する)素人の味方になってやって」などと口説き落とした[5][2]。萩本曰く「初めての司会だし上手くいかないかも。きっと3ヶ月ぐらいで番組をクビにされるだろう」と予想した上で引き受けたとのこと[5]。
- ^ 一部のマスメディアでは、「石野はアシスタント」と位置づけられている[6]。
- ^ 本人は後年、「出場者の緊張を少しでもほぐしてあげられたら良かったのですが、私には難しかった。合格されなかった方にどういう言葉をかけたらいいか分からなかったし、全員が合格できるわけではないので、毎回胸が締め付けられる思いでした」と語っている。
- ^ その収録の直前、阿久がとある賞にノミネートされた影響で時間の都合がつかなくなり、急遽都倉にオファーされた[5]。
- ^ プロデューサーの金谷は後年「数百人の出場者相手にどんな曲でも横森さんがたった1人でピアノで伴奏してくれた。予選会が成立したのは横森さんのおかげです」と感謝の言葉を述べている[4]。
- ^ 萩本時代では、この直前に萩本が必ず「点数が少ないとすぐ出てしまいます。」と発言した。
- ^ ただしビールのCMは「本生」のみ夏だけの放送(当時ビールは夏の商品とされた)、清涼飲料水(三ツ矢サイダーかバヤリース)に限定されていた。
- ^ 渡辺プロ渡辺美佐副社長(当時)の実家が経営。
- ^ 神保が合格した第15回決戦大会は他の合格者(久木田美弥、朝田のぼる、浦部雅美)も1社のみのスカウトであった。
- ^ 1993年に放送された同窓会では、「私だけ『お笑いスター誕生!!』という雰囲気がしてならない」と言って事実上謝罪したが、当時司会をしていた西川きよしは「いいがなあ!」とツッコミを入れて慰めていた。
- ^ 1980年頃までは収録に2インチVTRを使用していたためで、操作が煩わしく、かつビデオテープは保存に場所をとるため、一度放送された後は上書き消去されたり、他番組に使い回されたりしていた。さらに視聴者参加番組という宿命上、著作権法や肖像権等の絡みで番組の資料保存が大きく制約されていた。決戦大会のビデオテープが保存されるのは第14回以降である。
- ^ なお翌1月4日には、当時マッハがレギュラー出演していた『オールスター90分』(フジテレビ系列)にも山口百恵が出演、2日連続での共演となった。
- ^ 「ウルトラクイズ」のロゴは『アメリカ横断ウルトラクイズ』と同じだったが、「ウルトラハット」や「早押しテーブル」などの『ウルトラクイズ』グッズは使用しなかった。
- ^ 岩崎宏美の時はデビューして間もない岩崎良美が出演したが、良美は歌手であるため、「自分の持ち歌は歌わない」などのハンディキャップが与えられた。
- ^ 400回記念のハワイ大会では簡易型の階段が設けられた。
- ^ 決戦大会の審査でのスカウトを経てデビューした歌手のみ。
- ^ 放映は9月17日
- ^ 放映は8月11日
- ^ 女性ヴォーカルユニット。詳しくはサーカスのメンバー・叶正子の欄を参照。
- ^ 放映は4月3日
- ^ 中尾はカバーシングルで、元々は槇みちるのレコードのB面曲。
- ^ 森まどかの「ねえ・ねえ・ねえ」のカバー。
- ^ 放映は12月6日
- ^ 愛知県岡崎市出身、1984年出演当時の年齢は19歳。モデルの鈴木ゆかりとは別人。
- ^ そんな対応でも岩崎宏美はどこで会っても「欽ちゃん!!」と声をかけてくれたという。
- ^ プロダクションやレコード会社がプラカードを挙げてスカウトの意思を示し、入札対象となる合格者の所属交渉権を得るシステム。
- ^ 当時の社名はホリプロダクションであり、1990年に現社名に改称。
- ^ 放送枠の確保に高橋信三(当時のNET系準キー局・毎日放送の社長)が動き、再三にわたって調整した経緯があり、それ以上NETやMBSに無理を頼めなくなったことや、当時の音楽・バラエティ番組では芸能事務所単位で表裏出演を避ける慣習もあり、それまでの井原との個人的な友情を犠牲にしてまで、経営判断としてこうした要求をせざるを得なくなったという[23]。
- ^ 実際にはこの間もナベプロは日本テレビとは完全に絶縁せず、井原が関与していなかった番組や読売テレビなどの系列局制作番組には出演を継続させていたほか、子会社の渡辺企画はドラマを共同制作していた。また、ニューミュージック部門「NON STOP」に所属する歌手にも出演を継続させていた。
- ^ 司会者は『スタ誕』の二代目司会者だったタモリ。
- ^ 『読売新聞』1989年8月5日朝刊第32面(『読売新聞縮刷版』1989年8月号p.212)および夕刊第12面(同前p.224)のテレビ番組表に放送予定記載あり。
- ^ 収録日は8月1日。「WEEKLY CHASER」(『ORICON WEEKLY』1989年8月7日号)p.13にゲスト出演者・Winkの「出演」予定記載あり。
- ^ NEWSポストセブンの記事では、「88組92人」としている[7]。
- ^ 『あまちゃん』(NHK)では、小泉が演じた天野春子の少女時代の回想(有村架純)の中で『君でもスターだよ!』と題する、当番組へのオマージュともとれる架空のオーディション番組のシーンがあった。
出典
- ^ 『下野新聞』下野新聞社、1982年10月24日 - 1983年4月3日のラジオ・テレビ欄。
- ^ a b c d e f g h 週刊ポスト10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度前編p17-24
- ^ 志賀信夫『テレビヒット番組のひみつ : 「ジェスチャー」から「おしん」まで』日本放送出版協会、1984年8月1日、179 - 182頁。NDLJP:12275392/93。
- ^ a b c d 週刊ポスト10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度後編より金谷勲夫のインタビューp150-152
- ^ a b c d e f g h 「「スター誕生!」あの熱狂をもう一度」『週刊ポスト』後編、2021年10月29日、148-149頁。 - 萩本欽一と都倉俊一との対談
- ^ a b 週刊ポスト10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度・後編より石野真子のインタビューp145
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao “「石野真子が振り返る『スター誕生!』 プラカードが上がった時の感激!」より。”. NEWSポストセブン (2021年10月19日). 2021年10月24日閲覧。
- ^ 週刊ポスト10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度後編p150
- ^ “【昭和のことば】「スター誕生!」で生まれた萩本欽一の代表的なギャグ「バンザーイ、なしよ」(昭和46年)”. zakzak. 夕刊フジ (2021年3月31日). 2021年6月7日閲覧。
- ^ 中森明菜『本気だよ -菜の詩・17歳-』小学館、1983年。ISBN 4-09-363121-2。
- ^ 『テレビ番組の40年』、356頁。
- ^ YouTube井上あずみ】デビュー前14歳の時に出演した「スター誕生! 」のお宝映像!!
- ^ “萩本欽一×都倉俊一『スタ誕』対談 司会者と審査員は険悪だった?”. NEWSポストセブン. 小学館 (2021年10月22日). 2021年10月22日閲覧。
- ^ 週刊ポスト10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度後編p152
- ^ Wikipediaの目黒ひとみの記事より。
- ^ Wikipediaの新沼謙治の記事より。
- ^ Wikipediaの清水由貴子の記事より。
- ^ Wikipediaの本人のページより。
- ^ 週刊ポスト10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度・後編より日野美歌のインタビューp147
- ^ 週刊ポスト10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度・後編p151
- ^ 放送ライブラリー. “検索結果 スター誕生!〔100〕”. 2024年1月28日閲覧。
- ^ 軍司貞則『ナベプロ帝国の興亡』文藝春秋、1992年、274頁。
- ^ 松下治夫『芸能王国渡辺プロの真実。 : 渡辺晋との軌跡』青志社、2007年7月[要ページ番号]。
- ^ 『ナベプロ帝国の興亡』、277頁。
- ^ a b 週刊TVガイド 1983年7月29日号 p.25「REPORT・名物番組『スター誕生!』が九月で一時終了」
- ^ 読売新聞芸能部『テレビ番組の40年編』日本放送出版協会、1994年、360頁。ISBN 4-14-080192-1。
- ^ =VAP=『スター誕生! CD&DVD-BOX』2011年3月16日発売決定! - VAPによる紹介ページ
- ^ a b c d e 『河北新報』1971年10月3日付朝刊、テレビ欄。
- ^ a b 『福島民報』1982年4月4日、1983年9月25日付朝刊、テレビ欄。
- ^ 『福島民報』1971年10月9日、1972年3月25日付朝刊、テレビ欄。
- ^ 『福島民報』1972年4月2日、1973年9月30日付朝刊、テレビ欄。
- ^ 『福島民報』1973年10月7日、1981年9月27日付朝刊、テレビ欄。
- ^ 『福島民報』1981年10月4日、1982年3月28日付朝刊、テレビ欄。
- ^ a b c d 『日刊スポーツ』1976年1月4日付テレビ欄。
- ^ 『信濃毎日新聞』1977年4月3日、1981年9月27日付、テレビ欄。
- ^ 『信濃毎日新聞』1981年10月3日、1983年10月1日付、 テレビ欄。
- ^ a b 『北國新聞』1983年9月25日付朝刊、テレビ欄。
スター誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/26 20:23 UTC 版)
スター誕生(スターたんじょう)、あるいはスタア誕生は以下のいずれかを指す。
- 1 スター誕生とは
- 2 スター誕生の概要
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