スター誕生! ルール

スター誕生!

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/21 10:29 UTC 版)

ルール

「スタ誕」の予選会会場に使用されていたよみうりホール(読売会館7階)

予選会

出場希望の葉書が殺到したため、毎週約500-1000人に絞り、百貨店そごう有楽町店が入っていた読売会館の7階のよみうりホールで予選会を開いていた。このため、日曜日のそごうの階段は応募者の長蛇の列であふれ返っていた。なお、よみうりホールが他興行やメンテナンスで使用できない場合は、千代田区四番町の日本テレビ四番町ビル(現存し、バップなどが入居する。1号館から4号館まで4棟ある)で、地方で公開収録を実施する場合は、放送している系列局から告知を出していた。

応募者は、自ら持参した歌本(楽譜)を横森良造に提出し、横森のピアノの伴奏で歌う[注 8]。レギュラーの審査員は直接出向かず、テレビ予選の歌唱楽曲の編曲者である高見弘や番組のプロデューサーなどが審査をしていた。

予選会の一次審査は一人あたりの持ち時間は20~30秒で、歌いだし4小節で合否が判定され[8]、応募者は楽曲から好きな部分を四小節選び歌う。歌詞を忘れたり、歌い始めたと思ったらブザーが鳴ってしまったことも多かったという。この大人数の中から50人に絞り、同じ方法で二次審査を行う。二次審査では30人に絞られていく。どちらも失格者はその場で退場となる。

最終審査では、30人は1コーラス歌う時間を与えられる。そして、最終的にテレビ予選への進出者が決定する。その人数は当初は14人だったが、時期により変動がある。詳しくは次の「テレビ予選と審査方法」の欄を参照。

テレビ予選と審査方法

司会者の変遷により異なっていた。

萩本、谷・タモリ時代

テレビ予選に出場できるのは1回7人(組)まで。両代とも末期は5人に削減され(萩本時代は1978年1月8日から降板までの2年3か月、谷・タモリ時代は最後の1クールにあたる1981年1月11日 - 3月15日)、予選会の二次→最終審査は20人→10人だった。

アシスタントの紹介ナレーションと共に予選通過者が入場、電動昇降のスタンドマイクの前に立って一人1曲、1コーラス歌い、審査を受ける。

結果発表の時、挑戦者の頭上に4桁の電光掲示板があるセットが映される。舞台の下手(左側)に位置し、7人時は下段が1-4番で上段が5-7番、5人時は並列であった。会場の一般審査員と5人のプロフェッショナル審査員の合計点数が表示される。

得点は会場500点、プロは1人につき100点で計500点の1000点満点で、規定の点数に達すれば合格。その点数は7人時250点、5人時は300点。規定の300点時代の頃、305点でしかもギリギリラインで合格した挑戦者も多数いた。

最初に司会者が「まずは、会場の500点から、どうぞ!」と言い、会場から手元のスイッチで投票。その際にはファンファーレが鳴る。ボード上の数字は水色(初期は豆電球=ドット式)で回転。

まれに会場の審査段階で合格者が出ることもある。石野真子(大阪大会=豊中市民会館:テレビ放送日1977年2月13日)は、会場からの得点だけで合格ラインを超える280点を記録し、阿久悠らプロ審査員を驚かせた。石野は最終得点が530点(7人のプロ全員が合格と認めたため250点加算)になり1000点の過半数を独占した。ちなみに番組史上最高得点は桜田淳子の573点(秋田大会=秋田県民会館:テレビ放送日1972年8月6日)。

この得点審査中、合格者が出た場合は外周の赤い豆電球が時計回りに回転する。合格者が出なかった場合は(出た場合でも)、ドラムロールをバックに司会者が「トップは○番の○点、その次は○番の○点」とアナウンスする。

続いて、司会者が「さあ、審査員の先生方の500点が伸びます!…どうぞ!」と言い、ドラムロールの音が鳴り続けながら(その際にはクラッシュシンバルを叩いて合図する)プロの点数が加算される。数字が回転するのと同時に豆電球が回転。会場の段階での合格者もプロの点数は加算されるが、豆電球は回転し続けたままである。失格の場合は点数の低い順から豆電球が消える[注 9]。合格の場合、豆電球は回転したままで、数字はブラウン管と同じ原理で赤に変わり、目の前のパトライトが回転して合格を知らせる。

得点ボードが赤く付き、パトライトが回転して合格した瞬間、生バンドによるファンファーレが鳴り、萩本、谷&タモリが「○番の方、合格です!」と言った。さらに「合格!おめでとう!○番(画面では○の中に数字) ○○サン(クン)」の字幕スーパーが出た(坂本時代、きよし単独時代も同様)。

一度、萩本時代に『全国縦断選手権』というものが行われ、日本国内数箇所で予選を行い、それぞれの合格者が決勝に臨んだ(通常の決戦大会は行われなかった)。優勝者はデビューはしなかった。他の出場者はその次の決戦大会に出場したが、スカウトのプラカードは誰にも揚がらなかった。その中の一人に、後に『君こそスターだ!』でグランドチャンピオンになった、古賀栄子がいた。

谷・タモリ時代の5人時は、審査基準を歌唱力と個性に重点を置くため、会場の審査を歌っている最中に行っていた。舞台の中央(バンドボックス)左側にデジタル式の電光掲示板を設置し、画面の左下に緑のデジタル表示(クロマキー)を出していた。

合格者は、日本テレビ音楽学院(現・日テレ学院タレントコース)の入学案内書と、副賞として、全スポンサー6社(資生堂江崎グリコアサヒビール(当時の清涼飲料水部門)[注 10]浅田飴ナス救心製薬シャンソン化粧品グロリア魔法瓶ジャノメミシンほか)の内の3社から奨学金が贈られ、紺色のブレザーコートが羽織られる(この時『コングラチュレーション英語版』のインストルメンタルがBGMとなる)。

また、挑戦者全員には、全6社スポンサーの内、「奨学金」に関わらなかった3社からの参加賞がプレゼントされる。なお「奨学金に関わった3社」と「参加賞に関わった3社」は週毎に変わっていた(すなわち全社から参加賞が出る事はなかった)。番組後年(きよし単独時代後期から)、1分スポンサーが縮小した為、毎週固定スポンサーの賞品となった。

合格者が出ると最後はバンザイをして締めくくり、エンディングとなった。しかし、全員失格だった場合はエンディングの際、萩本時代は「バンザーイ、なしよ!」とポーズをとって締めくくった。これは、合格者が出なかった時に会場全体の空気が重苦しくなるため少しでも場を明るくしたいとの思いから萩本が思いついたもので[5]、これも彼のギャグのひとつになった[9]。なお、谷&タモリ時代は「ゴメン!」の一言だけ、坂本時代は「残念!」の一言だけだった。

坂本・石野時代

テレビ予選は1回8人まで。予選会の二次→最終審査は30人→16人。

二部構成で、パート1は8人がメドレー形式で歌い、100人の観客が審査する。持ち点は各自1点。点数の高い者がパート2へ進む。その人数は当初は5人、途中から4人に削減。

パート2はハンドマイクで一人1曲、1コーラス歌い、プロの審査を受ける。歌う曲目はパート1と異なる。

結果発表の時、舞台に挑戦者が座っている巨大なデジタル式の電光掲示板が登場。5人の審査員の点数が一人ずつ個別に表示される。ドラムロールが流れる中、坂本が「○○先生、得点(または点数)どうぞー!」と言う。そしてファンファーレが流れる中、審査員の似顔絵が描かれたランプが点灯して点数が表示される。持ち点は審査員1人につき60点が基準で、クリアすれば赤い豆電球が回転。5人の合計が300点に達すれば合格で、豆電球が上下を取り囲んで回転し、目の前のパトライトが回転し、生バンドによるファンファーレが鳴り、坂本が「○番、○点!おめでとうー!」と初代の萩本時代、2代目の谷&タモリ同様の言葉をかけていた。

中森明菜はこの時代、予選3回目の挑戦で合格[10](関東大会=後楽園ホール。テレビ放送日1981年8月2日)。点数は、阿久悠:75、森田公一:70、都倉俊一:85、松田敏江:63、中村泰士:99の合計392点。この形式での史上最高得点である。中村は本当は100点満点をつけるつもりだったが、ボードは2桁までしか入らないため99点とした。

合格者には中規模のトロフィーが授与された。初代の萩本時代から、決戦大会の最優秀賞獲得者にゴールデントロフィーを授与していたが、通常でもトロフィーが登場するようになったのはこの頃が初めてである。

同代から「スター誕生!」の番組名ロゴ及び、テーマ曲が変更されている。司会者のマイクもマイクキャップ付きのマイクになり、坂本は灰色、石野は赤色のマイクキャップだった(坂本は前期の番組前半はネクタイピンマイクを装着して進行していた)。その後、4代目のきよしは灰色、やすしは茶色のマイクキャップだった(場合によっては変則的にマイクキャップの色も異なった回もある)。

なお、坂本九はナベプロの影響の強いマナセプロ[注 11]のタレントであり、彼を司会に起用したことについて日本テレビがナベプロとの和解を模索したと評されている。エンディングテーマは坂本の曲「上を向いて歩こう」で、坂本本人が歌っていた。

また、石野は同番組の第20回決戦大会でスカウトされ、歌手デビューから3年後の司会起用であった。

きよし単独時代

テレビ予選は1回6人(予選会の二次→最終審査は20人→12人)、放送時間短縮後は5人が登場。一人1曲歌う(スタンドマイクの前に立って。決戦大会ではハンドマイク)。

審査時には坂本時代と同様に舞台に巨大なパネルが登場、挑戦者も座っている。ティンパニロールが鳴り、星の形の10個の電光ランプが8個以上点灯すると合格となり、決戦大会に進出となる。

決戦大会の選考方法が違うので、決戦大会の項目を参照。

やすきよ時代

前期(1982年10月24日-12月12日)

テレビ予選は1回15人が登場し、一人1曲歌う。審査は歌っている最中に行われ、結果は背後の大きな星型の電光掲示板が合格ラインに達すれば合格となり、自動的に決戦大会に進出となった。しかし、やすきよ時代の決戦大会は1回しか行われなかった。詳しくは決戦大会の項目を参照。また、このやすきよの代から、再び萩本、谷&タモリ時代の番組名ロゴに戻る。

後期(1983年1月23日-最終回)

正式タイトルを「スター誕生!~全国選抜歌の選手権~」と改めた。ルールも大幅に変更され、決戦大会をなくし、勝ち抜き制となった。一人1曲歌い、即座に審査結果が発表される。5人の審査員の合計が350点(持ち点は1人につき70点が基準)をクリアすると次の週に進んだ。そして7週連続勝ち抜くとグランドチャンピオン(GC)に認定。天井から紙吹雪が舞い(紙テープ風船は入っていなかった)、審査員から賞状とゴールデントロフィーが授与された。

この回から「グランドチャンピオン」のフレーズが出て来た。それまでは通常大会や決戦大会でも単に「合格」であり、さらに決戦大会合格者の中からは「最優秀賞」と表現していた。

GC達成の瞬間、「おめでとう!!グランドチャンピオン!!」の字幕スーパーが大きく出た。表彰の際には「1週目『○○(曲目)』×××点…」というように全ての歌った曲目と獲得点数の字幕ロールが出る。この回から、挑戦者がプロ・アマ問わなくなり、プロにはなったものの、ヒット曲に恵まれなかった元プロ歌手も出場していた。

決戦大会

1クール(3か月)に1回、合格者が7、8人たまったところで、観客席に芸能事務所、レコード会社のスカウトマンを集めて行われた。通常通り1人1曲、1コーラス歌い、審査員がコメントし、スカウトマンが質問した。なお萩本時代のみ、萩本が所属している浅井企画が参加し、毎回珍妙な質問を行っていた。

坂本時代までは、全ての出場者が歌い終わった後、バンドの左側に決戦大会専用の「お立ち台」が設けられ、結果発表となった。出場者が一人ずつお立ち台に出て、それぞれがスカウトマンに対しスカウトしてくれるようにアピールした。「○番、○○です。一生懸命歌いました。よろしくお願いいたします!」というフレーズは、多くの挑戦者が口にした。スカウトマンの中には、元ザ・タイガースタローや元ヴィレッジシンガーズのヴォーカルの清水道夫、ビクターレコードでの飯田久彦などがいた。司会者の「どうぞー!」の合図と、ドラムロールが鳴り、スカウトする意思があれば、会社の名前が書かれたプラカードを揚げた。特に萩本時代、なかなかスカウトマンがプラカードを揚げない状況が続くと「お願い、勝たせてあげてよー!」という台詞もよく出た。プラカードが揚がった瞬間にファンファーレが鳴り、司会者が「揚がりましたー!おめでとうございまーす!」と言っていた。

規則では、1社しか挙がらなくても合格として認められていたが、その後、会社の組み合わせができなければ保留、あるいは失格となった(事務所のみ、あるいはレコード会社のみ等は組み合わせに時間がかかり調整した)。もちろん1社からも指名されずに涙を呑んだ挑戦者もいた。そして、合格者(スカウトされた挑戦者)の中から1人「最優秀賞」が審査員から発表された。この方法は“人買い”との批判もあったが、チーフプロデューサーの池田文雄はこれについて、「あれは参加者や視聴者に芸能界の厳しさを教えたかったから」とインタビューで語っている[11]。その他、最優秀賞の次に優秀だった合格者に「審査員特別賞」が、まれに失格者の中から1人、審査員の裁量で次の決戦大会への挑戦権が優先的に与えられる「審査員奨励賞」が発表された。

12年間の最高指名社数は、桜田淳子の25社。その他では山口百恵新沼謙治に対して20社、黒木真由美渋谷哲平が18社、伊藤咲子-17社、石野真子-16社、清水由貴子-14社、森昌子-13社、中森明菜-11社、岩崎宏美ピンク・レディーが8社、岡田有希子-4社、柏原芳恵小泉今日子が3社、等。最少指名社数1社の合格者には、日本フォノグラムのみにスカウトされた神保美喜[注 12]渡辺プロダクションのみにスカウトされた松本明子[注 13]などがいる。

現存する番組の一番古い映像は、桜田淳子の秋田県テレビ予選出場者の選考会フィルム。森昌子・桜田淳子・山口百恵の決戦大会の映像は残されていない。音声のみのテープと写真が存在するだけである[注 14]。決戦大会で山口百恵は、東宝レコードスカウトマンの「百恵ちゃんは足は太いほうですか」の質問に、「はい、太いです」と返答した。

きよし単独時代の決戦大会は、スカウトマンが2名までスカウトして投票する形式で、投票後に即集計された。結果発表では挑戦者が「おめでとう!(会社名列挙)以上x(数字)社が貴方をスカウトしました。」と書かれた紙が入った封筒を持って待っていた。その後挑戦者が一人ずつ最前列に立って開封、獲得意思のある会社名が書かれていたら合格となり、「ありました」または「受かりました」などと言った。ファンファーレが鳴り、「おめでとう!(合格者氏名)さん」というテロップが出る中で天井から紙吹雪が舞い(この時期から紙吹雪の演出を始める)、トロフィーが授与された。逆に書かれていなかったら失格となり、「ありませんでした」または「受かりませんでした」と言って退場した。この方式でスカウトされたのは、吹田明日香松尾久美子、松本明子である。

やすきよ時代の決戦大会は、1982年12月19日・26日の2週に亘って行われた。事実上準決勝となるパート1は全合格者が一人1曲歌い、事実上決勝となるパート2に進める10人が選ばれた。パート2は10人が歌ったあと、スカウトマンが質問。そして萩本・谷&タモリ・坂本時代と同様に、スカウトマンに対し、スカウトしてくれるように呼びかけた。スカウトされたらきよし単独時代同様、「おめでとう!(合格者氏名)さん」というテロップが出る中で天井から紙吹雪が舞い、トロフィーが授与された。この方式でスカウトされたのは、岡田有希子(当時は「佐藤佳代」。この回のみTVのOAはなし)、太田貴子高橋美枝である。

この番組は歌手デビューがメインのオーディション番組だったが、決戦大会でプラカードが挙がってもデビュー出来なかった合格者、歌手以外の芸能人でデビューして有名になった挑戦者は数多くいる。10回決戦大会:1名、11回:1名、12回:1名、17回:3名(一人は最優秀賞受賞者)、19回:1名など。逆に決戦大会では失格になったものの、別口でスカウトされてデビュー、有名になったケースもある。例えば、全日本女子プロレスから女子プロレスラーとしてデビューしたマッハ文朱(5回)、決戦大会当日(44回)は指名しなかったボンドより翌年原宿でスカウトされデビューした本田美奈子、後にヤマハPOPCONでグランプリを獲得しデビューした本田美緒(35回)、14歳の時に決戦大会に出場し不合格だったが1983年に歌手デビューした井上あずみ[12]など。


注釈

  1. ^ また、1960年代まではスターは映画から生まれることが多かったが、1970年頃に映画界が斜陽になったことも理由。
  2. ^ 金谷によると、「それまでのオーディション番組はゴールデンタイムでの放送がほとんどだったが、どれも長続きしなかった」とのこと。
  3. ^ 萩本によると『スタ誕』開始前のある日、週刊誌に「コント55号の2人は仲が悪い」などと書かれたことで、コンビ出演の舞台などでお客さんの笑いが取りづらくなった。「しばらく個別の仕事に力を入れよう」と決めた頃、『スタ誕』の司会の話が来たとのこと[5]
  4. ^ 単独司会未経験なため断ろうとする萩本に、番組側は「アシスタントを付けるから、(出場する)素人の味方になってやって」などと口説き落とした[5][2]。萩本曰く「初めての司会だし上手くいかないかも。きっと3ヶ月ぐらいで番組をクビにされるだろう」と予想した上で引き受けたとのこと[5]
  5. ^ 一部のマスメディアでは、「石野はアシスタント」と位置づけられている[6]
  6. ^ 本人は後年、「出場者の緊張を少しでもほぐしてあげられたら良かったのですが、私には難しかった。合格されなかった方にどういう言葉をかけたらいいか分からなかったし、全員が合格できるわけではないので、毎回胸が締め付けられる思いでした」と語っている。
  7. ^ その収録の直前、阿久がとある賞にノミネートされた影響で時間の都合がつかなくなり、急遽都倉にオファーされた[5]
  8. ^ プロデューサーの金谷は後年「数百人の出場者相手にどんな曲でも横森さんがたった1人でピアノで伴奏してくれた。予選会が成立したのは横森さんのおかげです」と感謝の言葉を述べている[4]
  9. ^ 萩本時代では、この直前に萩本が必ず「点数が少ないとすぐ出てしまいます。」と発言した。
  10. ^ ただしビールのCMは「本生」のみ夏だけの放送(当時ビールは夏の商品とされた)、清涼飲料水三ツ矢サイダーバヤリース)に限定されていた。
  11. ^ 渡辺プロ渡辺美佐副社長(当時)の実家が経営。
  12. ^ 神保が合格した第15回決戦大会は他の合格者(久木田美弥、朝田のぼる、浦部雅美)も1社のみのスカウトであった。
  13. ^ 1993年に放送された同窓会では、「私だけ『お笑いスター誕生!!』という雰囲気がしてならない」と言って事実上謝罪したが、当時司会をしていた西川きよしは「いいがなあ!」とツッコミを入れて慰めていた。
  14. ^ 1980年頃までは収録に2インチVTRを使用していたためで、操作が煩わしく、かつビデオテープは保存に場所をとるため、一度放送された後は上書き消去されたり、他番組に使い回されたりしていた。さらに視聴者参加番組という宿命上、著作権法肖像権等の絡みで番組の資料保存が大きく制約されていた。決戦大会のビデオテープが保存されるのは第14回以降である。
  15. ^ なお翌1月4日には、当時マッハがレギュラー出演していた『オールスター90分』(フジテレビ系列)にも山口百恵が出演、2日連続での共演となった。
  16. ^ 「ウルトラクイズ」のロゴは『アメリカ横断ウルトラクイズ』と同じだったが、「ウルトラハット」や「早押しテーブル」などの『ウルトラクイズ』グッズは使用しなかった。
  17. ^ 岩崎宏美の時はデビューして間もない岩崎良美が出演したが、良美は歌手であるため、「自分の持ち歌は歌わない」などのハンディキャップが与えられた。
  18. ^ 400回記念のハワイ大会では簡易型の階段が設けられた。
  19. ^ 決戦大会の審査でのスカウトを経てデビューした歌手のみ。
  20. ^ 放映は9月17日
  21. ^ 放映は8月11日
  22. ^ 女性ヴォーカルユニット。詳しくはサーカスのメンバー・叶正子の欄を参照。
  23. ^ 放映は4月3日
  24. ^ 中尾はカバーシングルで、元々は槇みちるのレコードのB面曲。
  25. ^ 森まどかの「ねえ・ねえ・ねえ」のカバー。
  26. ^ 放映は12月6日
  27. ^ 愛知県岡崎市出身、1984年出演当時の年齢は19歳。モデルの鈴木ゆかりとは別人。
  28. ^ そんな対応でも岩崎宏美はどこで会っても「欽ちゃん!!」と声をかけてくれたという。
  29. ^ プロダクションやレコード会社がプラカードを挙げてスカウトの意思を示し、入札対象となる合格者の所属交渉権を得るシステム。
  30. ^ 当時の社名はホリプロダクションであり、1990年に現社名に改称。
  31. ^ 放送枠の確保に高橋信三(当時のNET系準キー局・毎日放送の社長)が動き、再三にわたって調整した経緯があり、それ以上NETやMBSに無理を頼めなくなったことや、当時の音楽・バラエティ番組では芸能事務所単位で表裏出演を避ける慣習もあり、それまでの井原との個人的な友情を犠牲にしてまで、経営判断としてこうした要求をせざるを得なくなったという[23]
  32. ^ 実際にはこの間もナベプロは日本テレビとは完全に絶縁せず、井原が関与していなかった番組や読売テレビなどの系列局制作番組には出演を継続させていたほか、子会社の渡辺企画はドラマを共同制作していた。また、ニューミュージック部門「NON STOP」に所属する歌手にも出演を継続させていた。
  33. ^ 司会者は『スタ誕』の二代目司会者だったタモリ。
  34. ^ 読売新聞』1989年8月5日朝刊第32面(『読売新聞縮刷版』1989年8月号p.212)および夕刊第12面(同前p.224)のテレビ番組表に放送予定記載あり。
  35. ^ 収録日は8月1日。「WEEKLY CHASER」(『ORICON WEEKLY』1989年8月7日号)p.13にゲスト出演者・Winkの「出演」予定記載あり。
  36. ^ NEWSポストセブンの記事では、「88組92人」としている[7]
  37. ^ あまちゃん』(NHK)では、小泉が演じた天野春子の少女時代の回想(有村架純)の中で『君でもスターだよ!』と題する、当番組へのオマージュともとれる架空のオーディション番組のシーンがあった。

出典

  1. ^ 下野新聞』下野新聞社、1982年10月24日 - 1983年4月3日のラジオ・テレビ欄。 
  2. ^ a b c d e f g h 週刊ポスト10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度前編p17-24
  3. ^ 志賀信夫『テレビヒット番組のひみつ : 「ジェスチャー」から「おしん」まで』日本放送出版協会、1984年8月1日、179 - 182頁。NDLJP:12275392/93 
  4. ^ a b c d 週刊ポスト10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度後編より金谷勲夫のインタビューp150-152
  5. ^ a b c d e f g h 「「スター誕生!」あの熱狂をもう一度」『週刊ポスト』後編、2021年10月29日、148-149頁。  - 萩本欽一と都倉俊一との対談
  6. ^ a b 週刊ポスト10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度・後編より石野真子のインタビューp145
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao 「石野真子が振り返る『スター誕生!』 プラカードが上がった時の感激!」より。”. NEWSポストセブン (2021年10月19日). 2021年10月24日閲覧。
  8. ^ 週刊ポスト10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度後編p150
  9. ^ 【昭和のことば】「スター誕生!」で生まれた萩本欽一の代表的なギャグ「バンザーイ、なしよ」(昭和46年)”. zakzak. 夕刊フジ (2021年3月31日). 2021年6月7日閲覧。
  10. ^ 中森明菜『本気だよ -菜の詩・17歳-』小学館、1983年。ISBN 4-09-363121-2 
  11. ^ 『テレビ番組の40年』、356頁。
  12. ^ YouTube井上あずみ】デビュー前14歳の時に出演した「スター誕生! 」のお宝映像!!
  13. ^ 萩本欽一×都倉俊一『スタ誕』対談 司会者と審査員は険悪だった?”. NEWSポストセブン. 小学館 (2021年10月22日). 2021年10月22日閲覧。
  14. ^ 週刊ポスト10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度後編p152
  15. ^ Wikipediaの目黒ひとみの記事より。
  16. ^ Wikipediaの新沼謙治の記事より。
  17. ^ Wikipediaの清水由貴子の記事より。
  18. ^ Wikipediaの本人のページより。
  19. ^ 週刊ポスト10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度・後編より日野美歌のインタビューp147
  20. ^ 週刊ポスト10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度・後編p151
  21. ^ 放送ライブラリー. “検索結果 スター誕生!〔100〕”. 2024年1月28日閲覧。
  22. ^ 軍司貞則『ナベプロ帝国の興亡』文藝春秋、1992年、274頁。 
  23. ^ 松下治夫『芸能王国渡辺プロの真実。 : 渡辺晋との軌跡』青志社、2007年7月[要ページ番号]
  24. ^ 『ナベプロ帝国の興亡』、277頁。
  25. ^ a b 週刊TVガイド 1983年7月29日号 p.25「REPORT・名物番組『スター誕生!』が九月で一時終了」
  26. ^ 読売新聞芸能部『テレビ番組の40年編』日本放送出版協会、1994年、360頁。ISBN 4-14-080192-1 
  27. ^ =VAP=『スター誕生! CD&DVD-BOX』2011年3月16日発売決定! - VAPによる紹介ページ
  28. ^ a b c d e 河北新報』1971年10月3日付朝刊、テレビ欄。
  29. ^ a b 福島民報』1982年4月4日、1983年9月25日付朝刊、テレビ欄。
  30. ^ 『福島民報』1971年10月9日、1972年3月25日付朝刊、テレビ欄。
  31. ^ 『福島民報』1972年4月2日、1973年9月30日付朝刊、テレビ欄。
  32. ^ 『福島民報』1973年10月7日、1981年9月27日付朝刊、テレビ欄。
  33. ^ 『福島民報』1981年10月4日、1982年3月28日付朝刊、テレビ欄。
  34. ^ a b c d 日刊スポーツ』1976年1月4日付テレビ欄。
  35. ^ 信濃毎日新聞』1977年4月3日、1981年9月27日付、テレビ欄。
  36. ^ 『信濃毎日新聞』1981年10月3日、1983年10月1日付、 テレビ欄。
  37. ^ a b 『北國新聞』1983年9月25日付朝刊、テレビ欄。



スター誕生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/26 20:23 UTC 版)

スター誕生(スターたんじょう)、あるいはスタア誕生は以下のいずれかを指す。




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