スター誕生! スター誕生!の概要

スター誕生!

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/21 10:29 UTC 版)

スター誕生!
番組の公開収録が行われていた後楽園ホール
別名 スタ誕
ジャンル 音楽番組/バラエティ番組
構成 河村シゲル、鈴木しゅんじ・詩村博史(パジャマ党)/ 萩本欽一ほか
ディレクター 宮嶋章
吉岡正敏
監修 阿久悠
司会者 萩本欽一
岩谷隆広
タモリ
坂本九
石野真子
横山やすし
西川きよし
若松愛子
出演者 別項
審査員 別項
製作
チーフ・プロデューサー 池田文雄
プロデューサー 金谷勲夫
制作 日本テレビ
放送
音声形式ステレオ放送(1982年10月以降)
放送国・地域 日本
55分番組時代
放送期間1971年10月3日 - 1982年3月28日
放送時間日曜 11:00 - 11:55
放送分55分
45分番組時代
放送期間1982年4月4日 - 1983年9月25日
放送時間日曜 11:00 - 11:45
放送分45分
テンプレートを表示

途中、1982年10月24日放送分でタイトルを『新・スター誕生!』と改め、同時にモノラル放送からステレオ放送へと移行したが、1983年4月3日からは正式タイトルを『スター誕生! ~全国選抜歌の選手権~』と改めた(ステレオ放送についてはそのまま継続)[1]

概要

番組の企画者は審査員の一人でもある阿久悠で、日本テレビ側の一般家庭で普及し始めたカラーテレビの特性を生かして[注 1]、「テレビマンの手でスターを生み出したい」との思い[2]も相まって1971年に『スター誕生!』が始まった。番組名の名付け親はチーフプロデューサー池田文雄である[3]。公開オーディション番組であり、毎週、厳しい予選を勝ち抜いてきた5-7人程度の挑戦者が歌合戦形式で実力を競う。

同じネット局のよみうりテレビ全日本歌謡選手権』(『スタ誕』より先に番組開始)や、兄弟番組である日本テレビ『お笑いスター誕生!!』と共に実力勝負が要求された。

放送時間と視聴率

『スタ誕』のプロデューサーだった金谷勲夫によると、番組開始にあたり「全くの素人をスターに育てるには時間が必要で、番組がすぐに打ち切られては意味がない」と考えた[注 2]。そこで視聴率をゴールデンタイムの番組ほど求められない、「日曜午前11時」枠でやることが決まった[4]。 

1982年3月28日までは毎週日曜 11:00 - 11:55 に放送されていたが、同年4月4日以降は『NNN昼のニュース』の放送時間繰り上げによって10分縮小し、11:45までの放送となった。また、一部のネット局では放送日時が異なっていた。1978年からは『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』放送時に休止となった。

初回の視聴率は4.7%だったがその後視聴率が上昇し始め、1978年5月7日放送分では番組史上最高の28.1%をマークした(いずれもビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)。

番組の方向性

1971年10月3日に『スタ誕』の放送を開始したものの、当初は「NHKのど自慢」のように小学生から70代までの歌自慢の老若男女が参加したため、番組側はどういう基準で合格者を選ぶかを迷っていた。そんな中10月下旬に現れたのが当時13歳の森昌子で、初代グランドチャンピオンになるとその後デビュー曲の『せんせい』が大ヒットした。この森の成功が呼び水となり、「自分もプロの歌手になれるかも」と考えた中高生を中心とする若者の『スタ誕』への応募が増え始め、その後の『スタ誕』の方向性を決定づけた[4]。その後『スタ誕』の参加者層は主に10代の年齢層となり、「NHKのど自慢」とは参加者層でも棲み分けされるようになった。

出演者

司会者

  • 初代:萩本欽一(1971年10月3日 - 1980年4月6日[第443回]) - 当時コント55号で人気絶頂期だった萩本にとって、本格的にテレビでのソロ活動、かつ司会初挑戦だった[注 3]。萩本は司会のオファーを受けると「(一人で)司会なんてしたことないの」と語っている。スタッフの説得により引き受けることになったが、当初萩本は1クールだけのつもりだったという[注 4]。オープニングは必ず客席から登場し、「皆さんおはようございます。会場の皆さん、おはよう!!」と視聴者・客席に呼び掛け、それに応えて観客も「おはよう!!」と叫ぶところから番組が始まっていた。本番では審査員たちが辛口な審査をしたため、萩本はいつも“参加者を応援する立場”を意識しながら司会進行したという[5]
  • 2代目:谷隼人タモリ(1980年4月13日 - 1981年3月22日) - 谷は出演当時「岩谷隆広」名義だった。タモリは兄弟番組である『お笑いスター誕生!!』にも審査員として出演していた。なお、タモリは後年の同窓会(後述)で「ほとんどつなぎの様なものでしたねぇ」と語っている。
  • 3代目:坂本九石野真子[注 5](1981年4月12日 - 1982年1月3日) - 石野は『スタ誕』デビュー組の歌手。石野にとって『スタ誕』の進行役は気苦労が多く[注 6]、坂本のリードに支えられ何とか役目を務めていたという[6]。その後石野は結婚による芸能界一時引退のために、1981年9月6日放送分をもって降板した。
  • 4代目:横山やすし・西川きよし(1982年1月10日 - 1983年9月25日) - 当初はきよし若松愛子と共に1982年3月21日放送分まで担当し、後に単独で務めた。やすしは1982年10月24日放送分から出演。

審査員

萩本、谷・タモリ、坂本(・石野)時代

  • 松田トシ(松田敏江) - 歌手・声楽家
  • 阿久悠 - 作詞家
  • 中村泰士 - 作曲家
  • 都倉俊一 - 作曲家
  • 三木たかし - 作曲家
  • 森田公一 - 作曲家
    • 当初、松田・阿久・中村はレギュラーで座り、残りの2名は外部の作詞家・作曲家レコード会社ディレクター芸能雑誌明星」「平凡」の編集記者が交互に登場していた。途中から都倉、三木が加入し、審査もより厳正になった。なお、中村は一時期降板して森田に交代したが、三木の完全な降板とともに復帰した。
    • 都倉が審査員になったのは、三鷹市民会館で行われた第9回の収録に諸事情で欠席することになった阿久のピンチヒッターとして出たのが最初[注 7]

きよし単独時代

司会のきよしは以下の人物を「評議員」と呼んでいた。

やすきよ時代

最末期での担当者。最終回まで出演。

その他の出演者

  • 高橋達也と東京ユニオン - バンド演奏
  • 岡本章生とゲイスターズ - バンド演奏
  • 横森良造 - アコーディオン演奏
  • 土居甫 - 振付
  • 井上れい子 - 萩本時代のアシスタント(萩本と同時期に降板)。
  • ザ・シュークリーム(ユキ(現・ホーン・ユキ)・クーコ(後の清水クーコ)・谷上“イッコ”いく子(現・北原由貴)・甲山“ノロ”暁美の4人組 - 萩本時代最初期のアシスタント
  • リンリン・ランラン香港出身の双子デュオ - 井上と共に萩本時代のアシスタントを務めた。
  • 北村優子 - アシスタント(リンリン・ランランと同時期に、デビューコーナーに正式に出演する前に、少しの間アシスタントを務め、合格者の首にメダルをかけていた)
  • 黒部幸英(出演当時は「クロベエ」名義。萩本と同時期に降板)
  • 斉藤清六
  • 雪吹優二郎(ふぶき ゆうじろう…出演当時は「ユージロー」名義。萩本と同時期に降板)
  • 西山浩司
  • シンちゃん、カメラ、風呂タロウ
  • 志摩のぶ子(後に芸名を「志摩のぶこ」に改名) - 谷&タモリ時代のアシスタント
  • 伊藤さやか - 坂本時代-やすきよ時代前期。当初は番組アシスタントを務めた女の子4人組「くれよん」の一員として出演。他のメンバーは、高鹿久子→シャワーの一員に。出口裕子、郡山美波)
  • ラビット関根(坂本時代)
  • 若松愛子 - きよし単独時代初期にきよしとのコンビで司会を務めた一般の老人女性(元宝塚と言っていた)。
  • 堀敏彦 - きよし単独時代、ゲームコーナー「仲よしきよし」に出演。当時高千穂商科大学に在学中で、浅井企画所属のタレント。後にテレビ新潟アナウンサー)
  • ザ・バーズセブン プラス1(日本テレビ音楽学院(現・日テレ学院タレントコース。後述参照)のレッスン生の選抜メンバー)
  • 伊藤英敏 - やすきよ時代のナレーション

注釈

  1. ^ また、1960年代まではスターは映画から生まれることが多かったが、1970年頃に映画界が斜陽になったことも理由。
  2. ^ 金谷によると、「それまでのオーディション番組はゴールデンタイムでの放送がほとんどだったが、どれも長続きしなかった」とのこと。
  3. ^ 萩本によると『スタ誕』開始前のある日、週刊誌に「コント55号の2人は仲が悪い」などと書かれたことで、コンビ出演の舞台などでお客さんの笑いが取りづらくなった。「しばらく個別の仕事に力を入れよう」と決めた頃、『スタ誕』の司会の話が来たとのこと[5]
  4. ^ 単独司会未経験なため断ろうとする萩本に、番組側は「アシスタントを付けるから、(出場する)素人の味方になってやって」などと口説き落とした[5][2]。萩本曰く「初めての司会だし上手くいかないかも。きっと3ヶ月ぐらいで番組をクビにされるだろう」と予想した上で引き受けたとのこと[5]
  5. ^ 一部のマスメディアでは、「石野はアシスタント」と位置づけられている[6]
  6. ^ 本人は後年、「出場者の緊張を少しでもほぐしてあげられたら良かったのですが、私には難しかった。合格されなかった方にどういう言葉をかけたらいいか分からなかったし、全員が合格できるわけではないので、毎回胸が締め付けられる思いでした」と語っている。
  7. ^ その収録の直前、阿久がとある賞にノミネートされた影響で時間の都合がつかなくなり、急遽都倉にオファーされた[5]
  8. ^ プロデューサーの金谷は後年「数百人の出場者相手にどんな曲でも横森さんがたった1人でピアノで伴奏してくれた。予選会が成立したのは横森さんのおかげです」と感謝の言葉を述べている[4]
  9. ^ 萩本時代では、この直前に萩本が必ず「点数が少ないとすぐ出てしまいます。」と発言した。
  10. ^ ただしビールのCMは「本生」のみ夏だけの放送(当時ビールは夏の商品とされた)、清涼飲料水三ツ矢サイダーバヤリース)に限定されていた。
  11. ^ 渡辺プロ渡辺美佐副社長(当時)の実家が経営。
  12. ^ 神保が合格した第15回決戦大会は他の合格者(久木田美弥、朝田のぼる、浦部雅美)も1社のみのスカウトであった。
  13. ^ 1993年に放送された同窓会では、「私だけ『お笑いスター誕生!!』という雰囲気がしてならない」と言って事実上謝罪したが、当時司会をしていた西川きよしは「いいがなあ!」とツッコミを入れて慰めていた。
  14. ^ 1980年頃までは収録に2インチVTRを使用していたためで、操作が煩わしく、かつビデオテープは保存に場所をとるため、一度放送された後は上書き消去されたり、他番組に使い回されたりしていた。さらに視聴者参加番組という宿命上、著作権法肖像権等の絡みで番組の資料保存が大きく制約されていた。決戦大会のビデオテープが保存されるのは第14回以降である。
  15. ^ なお翌1月4日には、当時マッハがレギュラー出演していた『オールスター90分』(フジテレビ系列)にも山口百恵が出演、2日連続での共演となった。
  16. ^ 「ウルトラクイズ」のロゴは『アメリカ横断ウルトラクイズ』と同じだったが、「ウルトラハット」や「早押しテーブル」などの『ウルトラクイズ』グッズは使用しなかった。
  17. ^ 岩崎宏美の時はデビューして間もない岩崎良美が出演したが、良美は歌手であるため、「自分の持ち歌は歌わない」などのハンディキャップが与えられた。
  18. ^ 400回記念のハワイ大会では簡易型の階段が設けられた。
  19. ^ 決戦大会の審査でのスカウトを経てデビューした歌手のみ。
  20. ^ 放映は9月17日
  21. ^ 放映は8月11日
  22. ^ 女性ヴォーカルユニット。詳しくはサーカスのメンバー・叶正子の欄を参照。
  23. ^ 放映は4月3日
  24. ^ 中尾はカバーシングルで、元々は槇みちるのレコードのB面曲。
  25. ^ 森まどかの「ねえ・ねえ・ねえ」のカバー。
  26. ^ 放映は12月6日
  27. ^ 愛知県岡崎市出身、1984年出演当時の年齢は19歳。モデルの鈴木ゆかりとは別人。
  28. ^ そんな対応でも岩崎宏美はどこで会っても「欽ちゃん!!」と声をかけてくれたという。
  29. ^ プロダクションやレコード会社がプラカードを挙げてスカウトの意思を示し、入札対象となる合格者の所属交渉権を得るシステム。
  30. ^ 当時の社名はホリプロダクションであり、1990年に現社名に改称。
  31. ^ 放送枠の確保に高橋信三(当時のNET系準キー局・毎日放送の社長)が動き、再三にわたって調整した経緯があり、それ以上NETやMBSに無理を頼めなくなったことや、当時の音楽・バラエティ番組では芸能事務所単位で表裏出演を避ける慣習もあり、それまでの井原との個人的な友情を犠牲にしてまで、経営判断としてこうした要求をせざるを得なくなったという[23]
  32. ^ 実際にはこの間もナベプロは日本テレビとは完全に絶縁せず、井原が関与していなかった番組や読売テレビなどの系列局制作番組には出演を継続させていたほか、子会社の渡辺企画はドラマを共同制作していた。また、ニューミュージック部門「NON STOP」に所属する歌手にも出演を継続させていた。
  33. ^ 司会者は『スタ誕』の二代目司会者だったタモリ。
  34. ^ 読売新聞』1989年8月5日朝刊第32面(『読売新聞縮刷版』1989年8月号p.212)および夕刊第12面(同前p.224)のテレビ番組表に放送予定記載あり。
  35. ^ 収録日は8月1日。「WEEKLY CHASER」(『ORICON WEEKLY』1989年8月7日号)p.13にゲスト出演者・Winkの「出演」予定記載あり。
  36. ^ NEWSポストセブンの記事では、「88組92人」としている[7]
  37. ^ あまちゃん』(NHK)では、小泉が演じた天野春子の少女時代の回想(有村架純)の中で『君でもスターだよ!』と題する、当番組へのオマージュともとれる架空のオーディション番組のシーンがあった。

出典

  1. ^ 下野新聞』下野新聞社、1982年10月24日 - 1983年4月3日のラジオ・テレビ欄。 
  2. ^ a b c d e f g h 週刊ポスト10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度前編p17-24
  3. ^ 志賀信夫『テレビヒット番組のひみつ : 「ジェスチャー」から「おしん」まで』日本放送出版協会、1984年8月1日、179 - 182頁。NDLJP:12275392/93 
  4. ^ a b c d 週刊ポスト10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度後編より金谷勲夫のインタビューp150-152
  5. ^ a b c d e f g h 「「スター誕生!」あの熱狂をもう一度」『週刊ポスト』後編、2021年10月29日、148-149頁。  - 萩本欽一と都倉俊一との対談
  6. ^ a b 週刊ポスト10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度・後編より石野真子のインタビューp145
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao 「石野真子が振り返る『スター誕生!』 プラカードが上がった時の感激!」より。”. NEWSポストセブン (2021年10月19日). 2021年10月24日閲覧。
  8. ^ 週刊ポスト10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度後編p150
  9. ^ 【昭和のことば】「スター誕生!」で生まれた萩本欽一の代表的なギャグ「バンザーイ、なしよ」(昭和46年)”. zakzak. 夕刊フジ (2021年3月31日). 2021年6月7日閲覧。
  10. ^ 中森明菜『本気だよ -菜の詩・17歳-』小学館、1983年。ISBN 4-09-363121-2 
  11. ^ 『テレビ番組の40年』、356頁。
  12. ^ YouTube井上あずみ】デビュー前14歳の時に出演した「スター誕生! 」のお宝映像!!
  13. ^ 萩本欽一×都倉俊一『スタ誕』対談 司会者と審査員は険悪だった?”. NEWSポストセブン. 小学館 (2021年10月22日). 2021年10月22日閲覧。
  14. ^ 週刊ポスト10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度後編p152
  15. ^ Wikipediaの目黒ひとみの記事より。
  16. ^ Wikipediaの新沼謙治の記事より。
  17. ^ Wikipediaの清水由貴子の記事より。
  18. ^ Wikipediaの本人のページより。
  19. ^ 週刊ポスト10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度・後編より日野美歌のインタビューp147
  20. ^ 週刊ポスト10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度・後編p151
  21. ^ 放送ライブラリー. “検索結果 スター誕生!〔100〕”. 2024年1月28日閲覧。
  22. ^ 軍司貞則『ナベプロ帝国の興亡』文藝春秋、1992年、274頁。 
  23. ^ 松下治夫『芸能王国渡辺プロの真実。 : 渡辺晋との軌跡』青志社、2007年7月[要ページ番号]
  24. ^ 『ナベプロ帝国の興亡』、277頁。
  25. ^ a b 週刊TVガイド 1983年7月29日号 p.25「REPORT・名物番組『スター誕生!』が九月で一時終了」
  26. ^ 読売新聞芸能部『テレビ番組の40年編』日本放送出版協会、1994年、360頁。ISBN 4-14-080192-1 
  27. ^ =VAP=『スター誕生! CD&DVD-BOX』2011年3月16日発売決定! - VAPによる紹介ページ
  28. ^ a b c d e 河北新報』1971年10月3日付朝刊、テレビ欄。
  29. ^ a b 福島民報』1982年4月4日、1983年9月25日付朝刊、テレビ欄。
  30. ^ 『福島民報』1971年10月9日、1972年3月25日付朝刊、テレビ欄。
  31. ^ 『福島民報』1972年4月2日、1973年9月30日付朝刊、テレビ欄。
  32. ^ 『福島民報』1973年10月7日、1981年9月27日付朝刊、テレビ欄。
  33. ^ 『福島民報』1981年10月4日、1982年3月28日付朝刊、テレビ欄。
  34. ^ a b c d 日刊スポーツ』1976年1月4日付テレビ欄。
  35. ^ 信濃毎日新聞』1977年4月3日、1981年9月27日付、テレビ欄。
  36. ^ 『信濃毎日新聞』1981年10月3日、1983年10月1日付、 テレビ欄。
  37. ^ a b 『北國新聞』1983年9月25日付朝刊、テレビ欄。



スター誕生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/26 20:23 UTC 版)

スター誕生(スターたんじょう)、あるいはスタア誕生は以下のいずれかを指す。




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