スター誕生!
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番組終了後
番組終了後も人気は高く、復活を望む声があった。局の編成部は「12年もの長い間続いたので、このあたりでひと区切り」としながらも「完全に終わらせるわけではなく、一旦お休み。盛大なお別れ特集もやりませんし、番組内容などを立て直してもう一度チャレンジします」とコメントし、早ければ半年後の1984年4月には番組を復活させる考えを示していたが[25]、結局この時の本番組復活は無かった。また、中三トリオを仕掛けた堀威夫(ホリプロ創業者、現・ファウンダー最高顧問)は後のインタビューで「当時は3分で作れるカップ麺が受けた時代だから、昨日の素人がアイドル、スターになれる番組が受けた。今は高い金を出して、並んででも美味しいものを求める時代だから、もう最大公約数を求めるテレビは、スターを作る番組は作れないだろう。」と語っている[26]。
「スター誕生!」終了後の1985年から1987年には、フジテレビで夕やけニャンニャンという番組が放送されていたが、その番組とタイアップして結成されたおニャン子クラブを通じて、新人タレントを発掘し育成する場という側面も同時に持っていた。「スター誕生!」出身者と同様、おニャン子クラブの出身者も今なお芸能界で活躍している者は少なくない。
終了後の特別番組
- 1989年8月5日に逸見政孝司会の特番『ザ・スカウト スター誕生ふたたび』が放送されている[注 34][注 35]。また同年10月に徳光和夫司会の特番『スター発見』というタイトルでリメイク版を放送した。
- 1993年12月31日放送の特別番組『スーパー電波バザール 年越しジャンボ同窓会』の枠内(1コーナー)と、1994年3月10日の『木曜スペシャル』の枠内で、番組終了10周年記念の同窓会の模様が『青春讃歌…スター誕生!物語』のタイトルで放送された。場所は東京プリンスホテルの大宴会場で、1993年12月2日に事前収録(開催)された。これも司会は徳光和夫だった。なおエンディングでは全12年間の足跡データをテロップ表示された。
応募総数 | 約200万通[2] |
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予選参加者 | 約60万人 |
番組出場者 | 5500組[2] |
決戦大会出場者 | 423組 |
合格者 | 88組91人[注 36] |
- 2008年8月1日に放送された単発スペシャルドラマ『ヒットメーカー 阿久悠物語』において、当番組のセットや構成(初代司会の萩本時代のもの)が再現された。また、桜田淳子が出場していた秋田予選のフィルムなど秘蔵映像も交えた。なおこの時のセットにも番組協賛スポンサーの看板はかかっているが、実際の企業名をパロディーにした架空のものである。また基本的には再現となっているが、音源の一部は放送当時のものを使っていた。
- 『スタ誕』以後の日本テレビの新人歌手オーディション番組として、2005年4月から2010年3月まで放送された『歌スタ!!』がある。
- 2011年3月16日、VAPからCD5枚組とDVD5枚組のボックス・セット『スター誕生! CD&DVD-BOX』がリリースされた[27]。内容は、CDは番組から正式にデビューした88組のデビュー曲が完全収録されている。DVDは、リアルタイムで放送されていた中から、第100回放送分、『木曜スペシャル』の枠で放送された『実録・スター誕生!1974』(1974年11月14日放送)、7周年記念(1978年10月1日放送)、1979年の正月スペシャル『欽ちゃん一座正月公演』(1月3日放送)、番組最終回、終了後に『木曜スペシャル』の枠で放送された前述の『青春讃歌…スター誕生!物語』、『スーパーテレビ情報最前線』の枠で放送された『スター誕生!物語』(2000年11月20日放送)が収録されている。しかし、DVDは映像が大幅に修正を施されたり、一部出身者のシーンが削除されている。
- 2013年9月24日『今夜あの場所で』と題された小泉今日子[注 37]、マツコ・デラックス、YOU司会によるロケーショントークバラエティーで、「小泉が芸能界デビューをするきっかけになった場所」として後楽園ホールでの対談が行われ、そこに『スター誕生!』のセットが再現された。なお協賛社のパネルは外してあった他、観客を入れていない状態での収録だった(放送中に入る観客の笑い声はラフトラック(合成処理)によるものだった)。また、番組内で、小泉の決戦大会でのスカウトの模様が紹介された。
- 2017年8月26日に放送された『24時間テレビ40』内で放送された単発ドラマ『時代をつくった男 阿久悠物語』において、本番組の企画発足からピンク・レディーの決勝までのエピソードが再現された。また、番組内において、森昌子、ピンク・レディーの決勝大会の映像も交えた。
注釈
- ^ また、1960年代まではスターは映画から生まれることが多かったが、1970年頃に映画界が斜陽になったことも理由。
- ^ 金谷によると、「それまでのオーディション番組はゴールデンタイムでの放送がほとんどだったが、どれも長続きしなかった」とのこと。
- ^ 萩本によると『スタ誕』開始前のある日、週刊誌に「コント55号の2人は仲が悪い」などと書かれたことで、コンビ出演の舞台などでお客さんの笑いが取りづらくなった。「しばらく個別の仕事に力を入れよう」と決めた頃、『スタ誕』の司会の話が来たとのこと[5]。
- ^ 単独司会未経験なため断ろうとする萩本に、番組側は「アシスタントを付けるから、(出場する)素人の味方になってやって」などと口説き落とした[5][2]。萩本曰く「初めての司会だし上手くいかないかも。きっと3ヶ月ぐらいで番組をクビにされるだろう」と予想した上で引き受けたとのこと[5]。
- ^ 一部のマスメディアでは、「石野はアシスタント」と位置づけられている[6]。
- ^ 本人は後年、「出場者の緊張を少しでもほぐしてあげられたら良かったのですが、私には難しかった。合格されなかった方にどういう言葉をかけたらいいか分からなかったし、全員が合格できるわけではないので、毎回胸が締め付けられる思いでした」と語っている。
- ^ その収録の直前、阿久がとある賞にノミネートされた影響で時間の都合がつかなくなり、急遽都倉にオファーされた[5]。
- ^ プロデューサーの金谷は後年「数百人の出場者相手にどんな曲でも横森さんがたった1人でピアノで伴奏してくれた。予選会が成立したのは横森さんのおかげです」と感謝の言葉を述べている[4]。
- ^ 萩本時代では、この直前に萩本が必ず「点数が少ないとすぐ出てしまいます。」と発言した。
- ^ ただしビールのCMは「本生」のみ夏だけの放送(当時ビールは夏の商品とされた)、清涼飲料水(三ツ矢サイダーかバヤリース)に限定されていた。
- ^ 渡辺プロ渡辺美佐副社長(当時)の実家が経営。
- ^ 神保が合格した第15回決戦大会は他の合格者(久木田美弥、朝田のぼる、浦部雅美)も1社のみのスカウトであった。
- ^ 1993年に放送された同窓会では、「私だけ『お笑いスター誕生!!』という雰囲気がしてならない」と言って事実上謝罪したが、当時司会をしていた西川きよしは「いいがなあ!」とツッコミを入れて慰めていた。
- ^ 1980年頃までは収録に2インチVTRを使用していたためで、操作が煩わしく、かつビデオテープは保存に場所をとるため、一度放送された後は上書き消去されたり、他番組に使い回されたりしていた。さらに視聴者参加番組という宿命上、著作権法や肖像権等の絡みで番組の資料保存が大きく制約されていた。決戦大会のビデオテープが保存されるのは第14回以降である。
- ^ なお翌1月4日には、当時マッハがレギュラー出演していた『オールスター90分』(フジテレビ系列)にも山口百恵が出演、2日連続での共演となった。
- ^ 「ウルトラクイズ」のロゴは『アメリカ横断ウルトラクイズ』と同じだったが、「ウルトラハット」や「早押しテーブル」などの『ウルトラクイズ』グッズは使用しなかった。
- ^ 岩崎宏美の時はデビューして間もない岩崎良美が出演したが、良美は歌手であるため、「自分の持ち歌は歌わない」などのハンディキャップが与えられた。
- ^ 400回記念のハワイ大会では簡易型の階段が設けられた。
- ^ 決戦大会の審査でのスカウトを経てデビューした歌手のみ。
- ^ 放映は9月17日
- ^ 放映は8月11日
- ^ 女性ヴォーカルユニット。詳しくはサーカスのメンバー・叶正子の欄を参照。
- ^ 放映は4月3日
- ^ 中尾はカバーシングルで、元々は槇みちるのレコードのB面曲。
- ^ 森まどかの「ねえ・ねえ・ねえ」のカバー。
- ^ 放映は12月6日
- ^ 愛知県岡崎市出身、1984年出演当時の年齢は19歳。モデルの鈴木ゆかりとは別人。
- ^ そんな対応でも岩崎宏美はどこで会っても「欽ちゃん!!」と声をかけてくれたという。
- ^ プロダクションやレコード会社がプラカードを挙げてスカウトの意思を示し、入札対象となる合格者の所属交渉権を得るシステム。
- ^ 当時の社名はホリプロダクションであり、1990年に現社名に改称。
- ^ 放送枠の確保に高橋信三(当時のNET系準キー局・毎日放送の社長)が動き、再三にわたって調整した経緯があり、それ以上NETやMBSに無理を頼めなくなったことや、当時の音楽・バラエティ番組では芸能事務所単位で表裏出演を避ける慣習もあり、それまでの井原との個人的な友情を犠牲にしてまで、経営判断としてこうした要求をせざるを得なくなったという[23]。
- ^ 実際にはこの間もナベプロは日本テレビとは完全に絶縁せず、井原が関与していなかった番組や読売テレビなどの系列局制作番組には出演を継続させていたほか、子会社の渡辺企画はドラマを共同制作していた。また、ニューミュージック部門「NON STOP」に所属する歌手にも出演を継続させていた。
- ^ 司会者は『スタ誕』の二代目司会者だったタモリ。
- ^ 『読売新聞』1989年8月5日朝刊第32面(『読売新聞縮刷版』1989年8月号p.212)および夕刊第12面(同前p.224)のテレビ番組表に放送予定記載あり。
- ^ 収録日は8月1日。「WEEKLY CHASER」(『ORICON WEEKLY』1989年8月7日号)p.13にゲスト出演者・Winkの「出演」予定記載あり。
- ^ NEWSポストセブンの記事では、「88組92人」としている[7]。
- ^ 『あまちゃん』(NHK)では、小泉が演じた天野春子の少女時代の回想(有村架純)の中で『君でもスターだよ!』と題する、当番組へのオマージュともとれる架空のオーディション番組のシーンがあった。
出典
- ^ 『下野新聞』下野新聞社、1982年10月24日 - 1983年4月3日のラジオ・テレビ欄。
- ^ a b c d e f g h 週刊ポスト10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度前編p17-24
- ^ 志賀信夫『テレビヒット番組のひみつ : 「ジェスチャー」から「おしん」まで』日本放送出版協会、1984年8月1日、179 - 182頁。NDLJP:12275392/93。
- ^ a b c d 週刊ポスト10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度後編より金谷勲夫のインタビューp150-152
- ^ a b c d e f g h 「「スター誕生!」あの熱狂をもう一度」『週刊ポスト』後編、2021年10月29日、148-149頁。 - 萩本欽一と都倉俊一との対談
- ^ a b 週刊ポスト10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度・後編より石野真子のインタビューp145
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao “「石野真子が振り返る『スター誕生!』 プラカードが上がった時の感激!」より。”. NEWSポストセブン (2021年10月19日). 2021年10月24日閲覧。
- ^ 週刊ポスト10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度後編p150
- ^ “【昭和のことば】「スター誕生!」で生まれた萩本欽一の代表的なギャグ「バンザーイ、なしよ」(昭和46年)”. zakzak. 夕刊フジ (2021年3月31日). 2021年6月7日閲覧。
- ^ 中森明菜『本気だよ -菜の詩・17歳-』小学館、1983年。ISBN 4-09-363121-2。
- ^ 『テレビ番組の40年』、356頁。
- ^ YouTube井上あずみ】デビュー前14歳の時に出演した「スター誕生! 」のお宝映像!!
- ^ “萩本欽一×都倉俊一『スタ誕』対談 司会者と審査員は険悪だった?”. NEWSポストセブン. 小学館 (2021年10月22日). 2021年10月22日閲覧。
- ^ 週刊ポスト10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度後編p152
- ^ Wikipediaの目黒ひとみの記事より。
- ^ Wikipediaの新沼謙治の記事より。
- ^ Wikipediaの清水由貴子の記事より。
- ^ Wikipediaの本人のページより。
- ^ 週刊ポスト10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度・後編より日野美歌のインタビューp147
- ^ 週刊ポスト10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度・後編p151
- ^ 放送ライブラリー. “検索結果 スター誕生!〔100〕”. 2024年1月28日閲覧。
- ^ 軍司貞則『ナベプロ帝国の興亡』文藝春秋、1992年、274頁。
- ^ 松下治夫『芸能王国渡辺プロの真実。 : 渡辺晋との軌跡』青志社、2007年7月[要ページ番号]。
- ^ 『ナベプロ帝国の興亡』、277頁。
- ^ a b 週刊TVガイド 1983年7月29日号 p.25「REPORT・名物番組『スター誕生!』が九月で一時終了」
- ^ 読売新聞芸能部『テレビ番組の40年編』日本放送出版協会、1994年、360頁。ISBN 4-14-080192-1。
- ^ =VAP=『スター誕生! CD&DVD-BOX』2011年3月16日発売決定! - VAPによる紹介ページ
- ^ a b c d e 『河北新報』1971年10月3日付朝刊、テレビ欄。
- ^ a b 『福島民報』1982年4月4日、1983年9月25日付朝刊、テレビ欄。
- ^ 『福島民報』1971年10月9日、1972年3月25日付朝刊、テレビ欄。
- ^ 『福島民報』1972年4月2日、1973年9月30日付朝刊、テレビ欄。
- ^ 『福島民報』1973年10月7日、1981年9月27日付朝刊、テレビ欄。
- ^ 『福島民報』1981年10月4日、1982年3月28日付朝刊、テレビ欄。
- ^ a b c d 『日刊スポーツ』1976年1月4日付テレビ欄。
- ^ 『信濃毎日新聞』1977年4月3日、1981年9月27日付、テレビ欄。
- ^ 『信濃毎日新聞』1981年10月3日、1983年10月1日付、 テレビ欄。
- ^ a b 『北國新聞』1983年9月25日付朝刊、テレビ欄。
スター誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/26 20:23 UTC 版)
スター誕生(スターたんじょう)、あるいはスタア誕生は以下のいずれかを指す。
- 1 スター誕生とは
- 2 スター誕生の概要
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