スター誕生! 放送回のエピソード

スター誕生!

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/21 10:29 UTC 版)

放送回のエピソード

100回記念

  • 1973年8月26日放送は通常の審査と結果発表に加え、これまでの番組出身者が一堂に登場(森昌子、桜田淳子、山口百恵、三橋ひろ子、南陽子、シルビア・リー、最上由紀子、藤正樹、松下恵子、菅原昭子)。同時にチーフ・プロデューサーの池田文雄の命名により[20]、森・桜田・山口の「花の中三トリオ」が確立した。この回は横浜市放送ライブラリーで閲覧可能である[21]

200回記念

200回記念大会と300回記念大会が行われた「ワイキキ・シェル
  • 200回を記念し、ハワイ大会が開催された。放映は1975年5月11日・18日(第189回・190回)。開催場所はワイキキの屋外コンサート会場「ワイキキ・シェル」。ゲストは花の高2トリオ(森昌子・桜田淳子・山口百恵)・伊藤咲子・城みちると、「デビューコーナー」の岩崎宏美(3週目と最終週)。この大会で横本メイが合格、横本は同年8月放映の「第14回決戦大会」(日本で開催)でも合格、同時に「審査員特別賞」も受賞した。
  • 1975年7月27日放送は100回記念の時と同様に、通常の審査と結果発表に加え、これまでの番組出身者が登場した。
  • ステージに掲げられた番組タイトルは、赤文字の「STAR」と青文字の「TANJO」をオリジナル風にまとめ、その右下に白文字で「in Hawaii」と描き、また「STAR」の「A」の横棒部分には、「」を組み合わせた。
  • なおこの大会で、山口百恵が『湖の決心』を歌っている場面は、後述の「山口百恵の最後の出演」でも使われた。

300回記念

  • 1977年4月17日・24日放送。200回記念以来2年振りにハワイ大会が開催された。今回も開催場所はワイキキ・シェル。ゲストは西城秀樹・桜田淳子・伊藤咲子・朝田のぼる・新沼謙治・岩崎宏美と、2年振りのハワイ帰還となった横本メイ、そして「デビューコーナー」の清水由貴子。

7周年記念

  • 1978年10月1日と8日両放送分は、『7周年記念卒業生全員集合』と銘打ち、番組出身者27組が勢揃いした。出身者は当番組で行われたゲームなどを行った。ラストは出身者を代表し、森昌子・桜田淳子・山口百恵の元「花の中三トリオ」が、同席した審査員やバンドの東京ユニオンなどに感謝の言葉を述べ、最後は『せんせい』の替え歌を歌って締めくくった。
  • 番組では、7周年の間の出場者に関するデータを発表した。一次審査合格率47パーセント、オーディション到達率30パーセント、出演率1パーセント、最終合格率0.0209パーセント。
応募総数 1,277,500通
(出場)通知を出した人 604,800人
オーディションを受けた人 209,068人
テレビに出た人 2420組
合格した人 267組
デビューした人 56組
(今日の)出演者 27組

400回記念

  • 1979年6月3日放送は通常回の後楽園ホールを飛び出し、巨人軍多摩川グラウンドからの放送。記念回では初めて通常の審査と結果発表が行われなかった。
  • 『スタ誕』出身者と、審査員が阿久悠監督・森田公一コーチ率いる紅軍「レッドスターズ」と、都倉俊一監督・中村泰士コーチ率いる白軍「ホワイトスターズ」に分れてソフトボール大会をした。また審判を萩本が務めた。実況(兼ナレーター)は、当時局アナの徳光和夫が担当した。
  • 参加した番組出身者の背番号は、デビューした順番が付けられた(例:桜田淳子は7、山口百恵は10番、岩崎宏美は35番、など)。また当時レギュラーだった黒部幸英は01番、雪吹優次郎は02番と変則番号で参加した。なお阿久監督は90番、都倉監督は80番だった(当時は80人もデビューしていなかった)。
  • ユニフォームは、レッドは白地に黒のストライプ、ホワイトは肌色無地で、胸マークは双方とも番組タイトルだった。また女性歌手用は双方ともホットパンツ状で、上半身部はレッドは赤のラグランスリーブ付き、ホワイトは襟付きであり、更に頭にはサンバイザーを付けていた(男性は野球帽)。
  • フェンスには番組スポンサー(これは後楽園ホールでのバック装飾も同じ)のほかに当時のネット局のロゴ(例えばよみうりテレビは現行のytv'ロゴではなかった)が描かれていた。
  • 勝負は、4-1でホワイトの勝ち。最高殊勲選手賞は、デビュー間もないホワイトの井上望(背番号60)が受賞した(理由は「5回完投したから」)。他に敢闘賞は塁審の横森良造(セーフとアウトが混ざったジェスチャーをして笑わせたから)。ファインプレイ賞はホワイトの雪吹優次郎(三塁手として2度もファインプレー)。珍プレイ賞はレッドの岩崎宏美(自分の出番に気づかずベンチに座っていたから)。応援賞はホワイトの藤正樹、清水由貴子、加本ひろの(なぜか選手として出番がなかったから)。
  • なおホワイトの都倉監督と中村コーチは、勝負には勝ったものの「メンバーの内3名(先述の藤、清水、加本)を出し忘れた」という責任で、「バツ賞」(つまり罰ゲーム)としてグラウンドを1周させられた。
  • 最後は、萩本球審を出演者全員で胴上げして締め括った。

萩本最終日

  • 萩本が最後の司会を務めた1980年4月6日(第443回)放送は、通常のレギュラー回で結果発表のあと、次期司会者(谷隼人&タモリ)と萩本時代の出身者が登場し、萩本のお別れに、何人か涙ぐんだ。
  • スタッフ紹介のあと、萩本と同時に番組を卒業する井上れい子やクロベエ、ユージローと同時にゲートに立ち去った。
  • 萩本は次期司会者の2人にメッセージを送った。
  • ちなみに萩本によると、司会在任中「『スタ誕』出身の歌手と親しくなりすぎると他のタレントたちから良く思われないだろう」との考えから、デビュー後の『スタ誕』出身の歌手たちと他の仕事現場で会っても敢えて距離を置いていたとのこと。相手から挨拶されても素っ気なく返した[注 28]が、『スタ誕』の司会を辞める時に「今まで笑顔を見せなくてごめんね」とみんなに謝ったという[5]

山口百恵の最後の出演

  • 1980年10月12日(第469回)放送は、通常の審査と結果発表は行わず、前週に引退コンサートを行った山口百恵を送り出す特集を組んだ(収録は同年9月)。ナレーターは徳光和夫。
  • 百恵が『スタ誕』での思い出を萩本や森昌子・桜田淳子、審査員と振り返り、代表曲を披露した(「としごろ」、「横須賀ストーリー」、「プレイバックPart2」、「秋桜」、「しなやかに歌って」、「ロックンロール・ウィドウ」、「さよならの向う側」)。審査員とは谷・タモリが進行を務め、萩本とは電光掲示板のあるセットで行った(百恵は3番席に、萩本は4番席に着席。百恵の頭上には合格時の点数である「329」が表示されていた)。途中で森と桜田が百恵に「新妻に捧げる歌」を披露した。
  • ラストは森・桜田と「明日に架ける橋」を歌い、百恵の有終の美を飾った。
  • なお番組冒頭で、山口百恵がはがきに出場希望を記載するイメージ場面が放送されたが、画面に出ていたはがきは放送当時発行されていた20円はがき(駅鈴はがき)で、山口百恵が番組に出場した時に発行されていた10円はがき(土器はがき)ではない。

500回記念

第500回記念回の収録が行われた日本武道館
  • 1981年3月29日と4月5日放送は、通常回の後楽園ホールを飛び出し、日本武道館からの放送(収録は3月18日)。
  • その時のサブタイトルは「さよならピンク・レディー」。パート1では3月31日に解散コンサートを控えていたピンク・レディーの軌跡を振り返った。
  • 全デビュー者がメドレーでデビュー曲を数小節ずつ歌ったが、引退者はデビュー当時のポスターとともに出席できない理由が会場からアナウンスされた。
  • その時点での司会者は、坂本九・石野真子が担当しており、それに加え萩本欽一も会場に駆けつけた。
  • この回の記念放送では坂本時代のロゴではなく、萩本・谷&タモリ時代のロゴが使用された。
  • チーフプロデューサーの池田文雄は当時胃の疾患で入院しており、不運にも番組を直接見届けることはできなかった。
  • また、この年の4月1日にテレビ新潟が開局。4月5日放送回が、テレビ新潟開局後初の「スタ誕」ネット受けとなった。ちなみに3月29日放送回は、4月4日(9:00 - 9:55、本来の『土曜ロータリー』枠)に放送された。

石野真子の最後の出演

  • 番組出身者にして当時の司会・坂本九の補佐役だった石野真子が長渕剛との結婚に伴う芸能界引退のため、1981年9月6日放送をもって番組を降板。当日は「真子ちゃんいつまでも元気でね」のサブタイトルで放送した。なお石野は後に芸能界に復帰した。

10周年記念

  • 1981年9月27日・10月4日・10月11日には3週にわたって放送。9月27日と10月4日には「第37回決戦大会」を2週連続で放送し、10月11日には「10周年総集編」を放送した。

注釈

  1. ^ また、1960年代まではスターは映画から生まれることが多かったが、1970年頃に映画界が斜陽になったことも理由。
  2. ^ 金谷によると、「それまでのオーディション番組はゴールデンタイムでの放送がほとんどだったが、どれも長続きしなかった」とのこと。
  3. ^ 萩本によると『スタ誕』開始前のある日、週刊誌に「コント55号の2人は仲が悪い」などと書かれたことで、コンビ出演の舞台などでお客さんの笑いが取りづらくなった。「しばらく個別の仕事に力を入れよう」と決めた頃、『スタ誕』の司会の話が来たとのこと[5]
  4. ^ 単独司会未経験なため断ろうとする萩本に、番組側は「アシスタントを付けるから、(出場する)素人の味方になってやって」などと口説き落とした[5][2]。萩本曰く「初めての司会だし上手くいかないかも。きっと3ヶ月ぐらいで番組をクビにされるだろう」と予想した上で引き受けたとのこと[5]
  5. ^ 一部のマスメディアでは、「石野はアシスタント」と位置づけられている[6]
  6. ^ 本人は後年、「出場者の緊張を少しでもほぐしてあげられたら良かったのですが、私には難しかった。合格されなかった方にどういう言葉をかけたらいいか分からなかったし、全員が合格できるわけではないので、毎回胸が締め付けられる思いでした」と語っている。
  7. ^ その収録の直前、阿久がとある賞にノミネートされた影響で時間の都合がつかなくなり、急遽都倉にオファーされた[5]
  8. ^ プロデューサーの金谷は後年「数百人の出場者相手にどんな曲でも横森さんがたった1人でピアノで伴奏してくれた。予選会が成立したのは横森さんのおかげです」と感謝の言葉を述べている[4]
  9. ^ 萩本時代では、この直前に萩本が必ず「点数が少ないとすぐ出てしまいます。」と発言した。
  10. ^ ただしビールのCMは「本生」のみ夏だけの放送(当時ビールは夏の商品とされた)、清涼飲料水三ツ矢サイダーバヤリース)に限定されていた。
  11. ^ 渡辺プロ渡辺美佐副社長(当時)の実家が経営。
  12. ^ 神保が合格した第15回決戦大会は他の合格者(久木田美弥、朝田のぼる、浦部雅美)も1社のみのスカウトであった。
  13. ^ 1993年に放送された同窓会では、「私だけ『お笑いスター誕生!!』という雰囲気がしてならない」と言って事実上謝罪したが、当時司会をしていた西川きよしは「いいがなあ!」とツッコミを入れて慰めていた。
  14. ^ 1980年頃までは収録に2インチVTRを使用していたためで、操作が煩わしく、かつビデオテープは保存に場所をとるため、一度放送された後は上書き消去されたり、他番組に使い回されたりしていた。さらに視聴者参加番組という宿命上、著作権法肖像権等の絡みで番組の資料保存が大きく制約されていた。決戦大会のビデオテープが保存されるのは第14回以降である。
  15. ^ なお翌1月4日には、当時マッハがレギュラー出演していた『オールスター90分』(フジテレビ系列)にも山口百恵が出演、2日連続での共演となった。
  16. ^ 「ウルトラクイズ」のロゴは『アメリカ横断ウルトラクイズ』と同じだったが、「ウルトラハット」や「早押しテーブル」などの『ウルトラクイズ』グッズは使用しなかった。
  17. ^ 岩崎宏美の時はデビューして間もない岩崎良美が出演したが、良美は歌手であるため、「自分の持ち歌は歌わない」などのハンディキャップが与えられた。
  18. ^ 400回記念のハワイ大会では簡易型の階段が設けられた。
  19. ^ 決戦大会の審査でのスカウトを経てデビューした歌手のみ。
  20. ^ 放映は9月17日
  21. ^ 放映は8月11日
  22. ^ 女性ヴォーカルユニット。詳しくはサーカスのメンバー・叶正子の欄を参照。
  23. ^ 放映は4月3日
  24. ^ 中尾はカバーシングルで、元々は槇みちるのレコードのB面曲。
  25. ^ 森まどかの「ねえ・ねえ・ねえ」のカバー。
  26. ^ 放映は12月6日
  27. ^ 愛知県岡崎市出身、1984年出演当時の年齢は19歳。モデルの鈴木ゆかりとは別人。
  28. ^ そんな対応でも岩崎宏美はどこで会っても「欽ちゃん!!」と声をかけてくれたという。
  29. ^ プロダクションやレコード会社がプラカードを挙げてスカウトの意思を示し、入札対象となる合格者の所属交渉権を得るシステム。
  30. ^ 当時の社名はホリプロダクションであり、1990年に現社名に改称。
  31. ^ 放送枠の確保に高橋信三(当時のNET系準キー局・毎日放送の社長)が動き、再三にわたって調整した経緯があり、それ以上NETやMBSに無理を頼めなくなったことや、当時の音楽・バラエティ番組では芸能事務所単位で表裏出演を避ける慣習もあり、それまでの井原との個人的な友情を犠牲にしてまで、経営判断としてこうした要求をせざるを得なくなったという[23]
  32. ^ 実際にはこの間もナベプロは日本テレビとは完全に絶縁せず、井原が関与していなかった番組や読売テレビなどの系列局制作番組には出演を継続させていたほか、子会社の渡辺企画はドラマを共同制作していた。また、ニューミュージック部門「NON STOP」に所属する歌手にも出演を継続させていた。
  33. ^ 司会者は『スタ誕』の二代目司会者だったタモリ。
  34. ^ 読売新聞』1989年8月5日朝刊第32面(『読売新聞縮刷版』1989年8月号p.212)および夕刊第12面(同前p.224)のテレビ番組表に放送予定記載あり。
  35. ^ 収録日は8月1日。「WEEKLY CHASER」(『ORICON WEEKLY』1989年8月7日号)p.13にゲスト出演者・Winkの「出演」予定記載あり。
  36. ^ NEWSポストセブンの記事では、「88組92人」としている[7]
  37. ^ あまちゃん』(NHK)では、小泉が演じた天野春子の少女時代の回想(有村架純)の中で『君でもスターだよ!』と題する、当番組へのオマージュともとれる架空のオーディション番組のシーンがあった。

出典

  1. ^ 下野新聞』下野新聞社、1982年10月24日 - 1983年4月3日のラジオ・テレビ欄。 
  2. ^ a b c d e f g h 週刊ポスト10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度前編p17-24
  3. ^ 志賀信夫『テレビヒット番組のひみつ : 「ジェスチャー」から「おしん」まで』日本放送出版協会、1984年8月1日、179 - 182頁。NDLJP:12275392/93 
  4. ^ a b c d 週刊ポスト10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度後編より金谷勲夫のインタビューp150-152
  5. ^ a b c d e f g h 「「スター誕生!」あの熱狂をもう一度」『週刊ポスト』後編、2021年10月29日、148-149頁。  - 萩本欽一と都倉俊一との対談
  6. ^ a b 週刊ポスト10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度・後編より石野真子のインタビューp145
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao 「石野真子が振り返る『スター誕生!』 プラカードが上がった時の感激!」より。”. NEWSポストセブン (2021年10月19日). 2021年10月24日閲覧。
  8. ^ 週刊ポスト10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度後編p150
  9. ^ 【昭和のことば】「スター誕生!」で生まれた萩本欽一の代表的なギャグ「バンザーイ、なしよ」(昭和46年)”. zakzak. 夕刊フジ (2021年3月31日). 2021年6月7日閲覧。
  10. ^ 中森明菜『本気だよ -菜の詩・17歳-』小学館、1983年。ISBN 4-09-363121-2 
  11. ^ 『テレビ番組の40年』、356頁。
  12. ^ YouTube井上あずみ】デビュー前14歳の時に出演した「スター誕生! 」のお宝映像!!
  13. ^ 萩本欽一×都倉俊一『スタ誕』対談 司会者と審査員は険悪だった?”. NEWSポストセブン. 小学館 (2021年10月22日). 2021年10月22日閲覧。
  14. ^ 週刊ポスト10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度後編p152
  15. ^ Wikipediaの目黒ひとみの記事より。
  16. ^ Wikipediaの新沼謙治の記事より。
  17. ^ Wikipediaの清水由貴子の記事より。
  18. ^ Wikipediaの本人のページより。
  19. ^ 週刊ポスト10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度・後編より日野美歌のインタビューp147
  20. ^ 週刊ポスト10月29日号「スター誕生!」あの熱狂をもう一度・後編p151
  21. ^ 放送ライブラリー. “検索結果 スター誕生!〔100〕”. 2024年1月28日閲覧。
  22. ^ 軍司貞則『ナベプロ帝国の興亡』文藝春秋、1992年、274頁。 
  23. ^ 松下治夫『芸能王国渡辺プロの真実。 : 渡辺晋との軌跡』青志社、2007年7月[要ページ番号]
  24. ^ 『ナベプロ帝国の興亡』、277頁。
  25. ^ a b 週刊TVガイド 1983年7月29日号 p.25「REPORT・名物番組『スター誕生!』が九月で一時終了」
  26. ^ 読売新聞芸能部『テレビ番組の40年編』日本放送出版協会、1994年、360頁。ISBN 4-14-080192-1 
  27. ^ =VAP=『スター誕生! CD&DVD-BOX』2011年3月16日発売決定! - VAPによる紹介ページ
  28. ^ a b c d e 河北新報』1971年10月3日付朝刊、テレビ欄。
  29. ^ a b 福島民報』1982年4月4日、1983年9月25日付朝刊、テレビ欄。
  30. ^ 『福島民報』1971年10月9日、1972年3月25日付朝刊、テレビ欄。
  31. ^ 『福島民報』1972年4月2日、1973年9月30日付朝刊、テレビ欄。
  32. ^ 『福島民報』1973年10月7日、1981年9月27日付朝刊、テレビ欄。
  33. ^ 『福島民報』1981年10月4日、1982年3月28日付朝刊、テレビ欄。
  34. ^ a b c d 日刊スポーツ』1976年1月4日付テレビ欄。
  35. ^ 信濃毎日新聞』1977年4月3日、1981年9月27日付、テレビ欄。
  36. ^ 『信濃毎日新聞』1981年10月3日、1983年10月1日付、 テレビ欄。
  37. ^ a b 『北國新聞』1983年9月25日付朝刊、テレビ欄。



スター誕生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/26 20:23 UTC 版)

スター誕生(スターたんじょう)、あるいはスタア誕生は以下のいずれかを指す。




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