逸聞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 13:46 UTC 版)
呂布が下邳を占拠すると、張飛は敗走した。劉備はこれを聞くと軍勢をまとめて引き揚げ、下邳に至ったところで、軍が崩壊した。崩壊した兵を集めながら東行して広陵を攻略したが、袁術と戦いになって、またも敗北した。飢餓のため困窮し、劉備軍の兵士が互いに食いあったというのである。(『英雄記』) 劉備は成都攻略にあたって、率いる部下たちに「事が定まった際には、成都の国庫内のあらゆる物を私は預からない」と約束した。成都を落とすと、部下たちは矛を捨て競って国庫に所蔵された財貨を取った。このため、軍事用資金や物資が枯渇し劉備はこれを憂いた。劉巴は劉備に「百銭の貨幣(直百五銖)を鋳造し諸物価を安定させ、国が管理する市を立てれば良いでしょう」と進言し、劉備がこれに従ったところ数か月で蔵が一杯になった。部下たちに成都に住居や城外の園畑を恩賞として与えようという議論があった、趙雲が反対したので劉備はそれに従ったという。(『趙雲別伝』『資治通鑑』) 彭羕は、その野心を警戒した諸葛亮が劉備に密告した為に、左遷されることとなった。彭羕は左遷される前に馬超を訪問すると、劉備を批判した後、「君が外で兵を挙げ、私が内を取り持てば、天下は思いのままである」と馬超に反乱を持ちかけた。流浪の末に帰順した馬超は、自分の身を危惧していたのでこの言葉を受け入れず、彭羕が帰るとその言葉を上表したため、彭羕は劉備に処刑された(『三国志』蜀志「彭羕伝」)。 劉備が漢中に出陣すると兵力不足を補うため至急の文書をよこし兵を微発せよといってきた。諸葛亮は楊洪の進言を聞き入れ、漢中に益州百姓を送り込んだ(『楊洪伝』)。 建安末年ごろに、張裕はある人に漢朝の滅亡と劉備の死を予言した。その人がこれ密かにを訴え出ると。劉備は以前から彼の不遜な態度もあったため、今回の漏らした言葉に激怒した。さらに漢中についての予言が当たらなかったことを明らかにさせ、張裕を処刑しようとした。諸葛亮が張裕のために助命を嘆願したが、劉備は美しい蘭でも門の前に咲いていれば刈り取らなければならないとの返答をしたという。結局、張裕は処刑され、後に彼が予言した通り魏が成立して漢が滅び、劉備が崩御した(『周羣伝』)。
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