逸聞
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呂布が下邳を占拠すると、張飛は敗走した。劉備はこれを聞くと軍勢をまとめて引き揚げ、下邳に至ったところで、軍が崩壊した。崩壊した兵を集めながら東行して広陵を攻略したが、袁術と戦いになって、またも敗北した。飢餓のため困窮し、劉備軍の兵士が互いに食いあったというのである。(『英雄記』) 劉備は成都攻略にあたって、率いる部下たちに「事が定まった際には、成都の国庫内のあらゆる物を私は預からない」と約束した。成都を落とすと、部下たちは矛を捨て競って国庫に所蔵された財貨を取った。このため、軍事用資金や物資が枯渇し劉備はこれを憂いた。劉巴は劉備に「百銭の貨幣(直百五銖)を鋳造し諸物価を安定させ、国が管理する市を立てれば良いでしょう」と進言し、劉備がこれに従ったところ数か月で蔵が一杯になった。部下たちに成都に住居や城外の園畑を恩賞として与えようという議論があった、趙雲が反対したので劉備はそれに従ったという。(『趙雲別伝』『資治通鑑』) 彭羕は、その野心を警戒した諸葛亮が劉備に密告した為に、左遷されることとなった。彭羕は左遷される前に馬超を訪問すると、劉備を批判した後、「君が外で兵を挙げ、私が内を取り持てば、天下は思いのままである」と馬超に反乱を持ちかけた。流浪の末に帰順した馬超は、自分の身を危惧していたのでこの言葉を受け入れず、彭羕が帰るとその言葉を上表したため、彭羕は劉備に処刑された(『三国志』蜀志「彭羕伝」)。 劉備が漢中に出陣すると兵力不足を補うため至急の文書をよこし兵を微発せよといってきた。諸葛亮は楊洪の進言を聞き入れ、漢中に益州百姓を送り込んだ(『楊洪伝』)。 建安末年ごろに、張裕はある人に漢朝の滅亡と劉備の死を予言した。その人がこれ密かにを訴え出ると。劉備は以前から彼の不遜な態度もあったため、今回の漏らした言葉に激怒した。さらに漢中についての予言が当たらなかったことを明らかにさせ、張裕を処刑しようとした。諸葛亮が張裕のために助命を嘆願したが、劉備は美しい蘭でも門の前に咲いていれば刈り取らなければならないとの返答をしたという。結局、張裕は処刑され、後に彼が予言した通り魏が成立して漢が滅び、劉備が崩御した(『周羣伝』)。
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逸聞
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昔、蔣欽が宜城に軍を置いていたときのこと、豫章の不服従民を討伐したことがあったが、その間に蕪湖県令の徐盛が、宣城に駐屯していた蔣欽の部下を処罰しようとした。蔣欽の功績を重んじた孫権に拒否され、徐盛はこれにより蔣欽に嫌悪されていると考えた。濡須口の戦いにおいては蔣欽は呂蒙と共に諸軍の指揮を執ったが、徐盛は以前のこともあって蔣欽を恐れていた。しかし、蔣欽は、しばしば徐盛の優れたところを賞賛した。孫権が蔣欽に尋ねて「徐盛はかつてあなたのことを挙げつらった上言をしたのであるのに、あなたはいま徐盛を推挙される。祁奚(中国語版)に倣うつもりかね?」蔣欽は答えて「臣は、公の推挙には私怨をまじえぬものと聞いております。徐盛は、まごころをもって勤めに励んでおり、胆略で見通しがきき、器量も備えていて、一万の兵を指揮するにふさわしい人物です。いま統一という大事もまだ未完成であって、臣には国家のために才能ある人物を捜し求める義務がございます。どうして私怨にひかれて有能な人材をかくれたままにしておいたりいたしましょう」。孫権はこの言葉を喜んだ。徐盛は蔣欽の徳に心服し、人々の風評も蔣欽をほめたたえた(「蔣欽伝」)。 濡須口の戦い後、朱然達と共に周泰の指揮下に付けられたことがあった。徐盛や朱然といった面々は周泰の指揮下に入っていたが、孫権は濡須塢で諸将を集めて宴を開き、周泰の功績を強調し厚遇する態度を示したため、徐盛達も周泰の下に付くことを納得するようになった(「周泰伝」)。
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逸聞
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孫権は朱治をとても尊敬しており文句があっても言わなかった。そして朱治の功績に対しては賞賛の声を惜しまなかった。これを察した諸葛瑾は、孫権の前で自問自答を披露し、そのなかでさりげなく朱治を責め、また朱治の弁解を推量した。孫権は納得し笑って、「顔回の徳は人々の間に親密さをもたらしたが、あなたが今やられたようなことをいうのであろう」と言ったという。 孫権の仕官の際に推薦者を務めたことから、孫権は将軍位をいくつか経て、ついに呉王になったが、朱治が毎度参内した際、孫権みずからが出迎え、笏を執って互いに拝礼をかわし、宴会でも厚い待遇を与えて、配下の役人にも個人的な目通りを許したという。 朱治は若いころより征討に従事し、黄武2年(223年)、度重なる功績から安国将軍を拝命、孫権は朱治に一振りの刀を造り、銘文には「安国」とある。
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逸聞
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聡明ではあったが教養に乏しかったため、呂蒙と共に孫権から勉学に励むように諭された。このため必死に書物を読んで勉強し、呂蒙と並んで、孫権に「その行いは人々の模範となり、国士である」と賛嘆された。 孫権が蔣欽に尋ねて「徐盛はかつてあなたのことを挙げつらった上言をしたのであるのに、あなたはいま徐盛を推挙される。祁奚(中国語版)に倣うつもりかね?」蔣欽は答えて「臣は、公の推挙には私怨をまじえぬものと聞いております。徐盛は、まごころをもって勤めに励んでおり、胆略で見通しがきき、器量も備えていて、一万の兵を指揮するにふさわしい人物です。いま統一という大事もまだ未完成であって、臣には国家のために才能ある人物を捜し求める義務がございます。どうして私怨にひかれて有能な人材をかくれたままにしておいたりいたしましょう」。孫権はこの言葉を喜んだ。徐盛は蔣欽の徳に心服し、人々の風評も蔣欽をほめたたえた。
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逸聞
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昔、賀斉将軍を派遣して山越の叛徒たちを討伐させたときのこと、叛徒たちの中に禁の術(ものの力の発動を封じる呪術)をよくする者がいた。戦いを交えようとするたびに、呪術の力で官軍は刀剣を抜くことができず、弓矢を放ってもみなこちらのほうに戻ってくるため、戦いはいつも不利であった。賀斉は、事態をじっくり読み取り思案をめぐらされると、「金属でも刃のあるものは封じられ、虫でも毒のあるものは封じられても、刃のないものや毒を持たぬ虫は封じることができないとできぬに違いない」そこで堅い木材でこん棒を多数作らせると、精鋭兵士五千人を選んで突撃隊となし、そのすべてにこん棒を持たせた。敵の山越たちは、禁の術に巧みなものがあるとたのんだので、しっかりとした備えは一つもなかった。そこで官軍がこん棒によって攻撃を加えたところ、禁の術者ははたして威力を発揮することができず、打ち殺された者が何万という数にのぼった。(『抱朴子』) 賀斉が命令を受けて孫権のもとに伺侯したあと、任地の郡にもどることになると、孫権は都の郊外にまで出て送別の儀式や宴会を行い、その場では音楽が奏され剣舞が舞われた。賀斉に馬車と駿馬とが下賜され、送別の宴も終わって孫権が車に入ると、賀斉にも馬車に乗るようにと命じた。賀斉が主君の前で馬車に乗るのはおそれ多いと辞退をすると、孫権は側仕えの者に命じて賀斉をむりやり馬車に乗せさせ、郡にいるときと同様に威儀を整え行列を作って出発させた。孫権はその様子を望みやり、笑いながら、「人たるもの、努力をせねばならぬ。立派な行いを積み忠勤を重ねなければ、こうした栄誉は得られぬのだ」。(『江表伝』) あるひとが「呂範と賀斉は奢侈で、服飾は帝王を僭擬してる」という。孫権「昔、管仲の礼を越える事を桓公は優遇してこれを容認したが、覇業を損いはしなかった。今、子衡・公苗の身には夷吾の過失は無く、ただその器械の精なるを好み、舟車を厳整しているだけだ。どちらも軍容を立派にするもの。どうしてダメなのかね」と。告げた者は再びは言おうとしなかった。 (『江表伝』)
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逸聞
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潘璋の性格は粗暴勇猛であったが、禁令はよく実施した。功績を立てることを望み、率いる軍は数千人に過ぎなかったが、どこでも一万の軍勢のような働きを示した。また戦いが一段落すると、軍の管理する市場を開き、他の部隊で物品の不足があれば、皆潘璋の市場で補充させた。 しかし、潘璋は強欲で金銭に執着するところがあり、晩年にそれが一層酷くなって、身分不相応な服装を好んだり、豊かな役人や兵士を殺害し財産を没収するなど、不法行為を何度か起こした。監察の役人がこのことを何度か上奏したが、孫権は潘璋の功績を惜しんでいつも罪を問わなかった。 潘璋は偏将軍となり、関羽を生け捕りにして固陵太守に任命された。孫権は潘璋に一振りの刀を造り、「固陵」と銘打った。
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逸聞
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魏の降伏者から魏が長江を砂袋でせき止めて呉を攻める計画があると聞いたと孫権に上奏したところ、孫権は笑って「長江は天地開闢以来常に流れ続けている大河で、そんなものでせき止められるわけがない。もし出来たら牛千頭をごちそうしよう」と相手にしなかった。
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逸聞
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孫策と碁を打っている時、呂範は孫策に軍の弛緩を指摘し、無理やり都督の職を貰えるように芝居を打ったと言う逸話がある。呂範は、退出するといきなり軍服に着替え、乗馬鞭を持って勝手に都督を自称した。孫策は、改めて都督の任を授けることにし、呂範が都督となると間もなく軍の規律はよく守られるようになったという。 若い孫権は金欲しさでたびたび公費を使い込んでは、周谷が帳簿をごまかしてやっていた。孫策はあるとき、呂範に会計事務の仕事を任せることになった。孫権は度々呂範に金の無心をしたが、呂範は必ず孫策の許可を求め、孫権には好き勝手に金を使わせなかったと言う。孫権はこのことから初め呂範を嫌っていたが、後に孫権が当主となると、呂範の節度を大いに褒めて信任したという。逆に、当時孫権のために帳簿を書き換えしていた人物は、その当時こそ孫権に気に入られたものの、後に「勝手に帳簿を書き換える人間など信用できない」ということであまり重く用いられなかった。忠実さを評価されて、信任される理由の一つとなった。 孫権は都を建業に戻して、文武大会が行われたときのこと、厳畯は、孫権が魯粛と呂範を実質以上の評価をし過ぎるのではないかと、納得できないと漏らしたことがあったので、孫権は呂範について、「奢侈を好む性格ではあったが、他の軍務に悪影響あったわけではなく、みずから軍を編成し、本来の職務も慎み励み、忠誠心にあつく清潔でまっすぐ、公への配慮があった。そこが呉漢に似ている」といった。厳畯はこれを聞いて納得した。孫権が厳畯と討論した際、呂範を光武帝の功臣の呉漢に準えている(『江表伝』)。 あるひとが「呂範と賀斉は奢侈で、服飾は帝王を僭擬してる」という。孫権「昔、管仲(管夷吾)の礼を越える事を桓公は優遇してこれを容認したが、覇業を損いはしなかった。今、子衡(呂範)・公苗(賀斉)の身には夷吾の過失は無く、ただその器械の精なるを好み、舟車を厳整しているだけだ。どちらも軍容を立派にするもの。どうしてダメなのかね」と。告げた者は再びは言おうとしなかった(『江表伝』)。
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逸聞
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孫家に最も古くから仕えていた古参の武将であり、その中でも程普が最年長であったことから、他の武将から「程公」と呼ばれ尊敬された。気前がよく他人に施しをよくし、士人とも親しく交わったという。若くして台頭してきた周瑜とは折り合いが悪かったが、周瑜は決して反発せず、身を低くして謙虚な態度を保った。後に周瑜の人柄と能力を認め敬服するようになったという。程普は「周公瑾と交わっていると、芳醇な美酒を飲んだように自分が酔ってしまったことに気がつかない」と述べた(「周瑜伝」が引く『江表伝』)。 赤壁大戦の前夜、程普が周瑜の命により瑞昌に駐留していた時、赤烏が現れ千百の群れで陣中を飛び回ったという。程普は「赤烏の瑞祥には武昌に降りる」と予言した。結果的に程普の予言通り曹操は周瑜に大敗した(『瑞昌県誌』・『九江府誌』)。
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