護国の鬼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/05 08:28 UTC 版)
姚興が亡くなり、姚泓が後継者となった。後秦皇帝・姚泓は姚紹に政治・軍事の両面を委ねた。この抜擢に感じ入った姚紹は、二心を抱くことなく、姚泓に忠誠を尽くした。 北地太守・毛雍が趙氏塢に拠って叛いたため、これを討伐して毛雍を捕えた。その後、李潤を守っていた安定公・姚宣も叛いた。姚宣は3万8千戸を連れて、南下して邢望(陝西省大茘県)へ移った。姚紹は進軍して破り、出頭した姚宣を殺害した。姚泓は姚宣説得のため、姚仏生を遣わしたが、姚宣側に寝返ったため、姚紹はその罪を責めて誅殺した。 姚泓が宮臣・16人を5等子男に封じようとしたところ、撫軍将軍・姚讃が「東宮の文武というものは守忠の誠があることが当然であるのに、功もないのにどうして封を受ける者が多いのでしょうか」と諌めた。姚泓が「爵を授けることで盛徳を明らかにするのだ。わたしは宮臣と憂いをともにしているというのに、その福を独り受けることを心中愧じるものなのだ」と答えた。姚紹が進み出て「陛下がこれに報いることをお忘れになっていないということは宜しいのですが、次の春を待ってから議することとすべきでしょう」と言ったので、姚泓はこの議をとりやめた。 6月、赫連勃勃が後秦領内に侵攻した。陰密、安定(甘粛省定西市安定区)を抜いて、常安(陝西省西安市)近郊まで攻め寄せた。姚紹は征虜将軍・尹昭、鎮軍将軍・姚洽ら、5万の兵を率い、征北将軍・姚恢が精騎1万を率いて後続となった。赫連勃勃は安定に拠ろうとしたが、安定は後秦に降った。姚紹は赫連勃勃を追撃、馬鞍坂でこれを破り、朝那(寧夏回族自治区彭陽県)まで追跡したが及ばず帰還した。 9月、東晋軍が後秦領内に侵攻を開始した。姚紹は 「安定は領内から遠く、すぐには救援に向かえません。諸軍を遷して京畿の軍を充実させるべきです。これで東晋、夏の侵攻に対応できます。でなくば、東晋が豫州、夏が安定を占拠したら、如何になさるおつもりですか。速やかに決断すべきです」と進言した。左僕射・梁喜は「姚恢は勇にして威名があり、嶺北の者たちの憚るところとなっております。安定の人々は赫連勃勃とは深い仇敵となっていて死んでも叛くものではなく、赫連勃勃もこれを棄てて京畿へと侵攻することはできないでしょう。もし安定がなければ、必ずや京畿にまでやってまいります。関中の兵馬は東晋軍を防ぐに足りておりますのに、どうして自ら防衛拠点を棄てる必要がありましょうか」姚泓はこれに従った。 12月、征東司馬・孫暢が、常安を襲って、姚紹を誅殺して姚泓を廃して自立するよう、征東将軍・姚懿に勧めた。姚懿はこれを容れ、姚泓に叛旗を翻す準備をした。姚泓はこれを聞くと姚紹らを召し、朝堂において密謀した。姚紹が「姚懿はもともと浅薄な性格で、人の言葉に影響され易く、この事をなさせたのは孫暢に他なりません。使者を遣わして孫暢を徴し、姚讃を遣わして陝に拠らせ、臣を潼関(陝西省潼関県)に遣わして、諸軍を指揮させてください。もし、孫暢が詔を奉じてやって来れば、臣は姚懿を連れて、河東の兵を率いてともに東晋軍を平定しましょう。反逆がすでに成っていれば、その罪を天下に明らかにしてこれを撃つことにいたします」と言った。姚泓はこの言葉を容れた。 姚懿は遂に挙兵して、帝位を僭称して檄を州郡に伝えた。河東の兵で姚懿のもとへ赴く者はなかった。姚紹が蒲津(山西省永済県)から渡り、蒲坂(山西省永済県)へ入って姚懿を捕えて幽閉し、孫暢らを誅殺した。 417年1月、姚泓は前殿において、内憂外患の状況内外から、群臣と朝会した際に涙を流し、群臣らも皆泣いた。姚恢が安定の3万8千戸を率い、北雍州から常安へと向かった。姚恢は大都督・建義大将軍と自称し、君側の患を除くとの檄を各州郡に伝えた。 姚泓は姚紹を召還した。軽騎を率いて迎撃に向かい、霊台(甘粛省霊台県)において敵軍と対峙した。姚恢が姚紹に迫ると、姚讃が後方から急襲、姚恢軍を大破して姚恢及び3人の弟を殺害した。 東晋軍が潼関に迫るまで侵攻してきた。姚泓は姚紹を太宰・大将軍・大都督・中外諸軍事として黄鉞を仮し、改封して魯公とし、侍中・司隷校尉・宗正・節録のこれまでの官職はそのままに、朝廷を総覧させ、決定させることとした。姚紹はこれを固辞したが、許されなかった。5万の兵を率いて、潼関に拠った。 3月、東晋軍が青泥(陝西省藍田県)にまで至ると、方陣をなしてこれを防いだ。冠軍将軍・檀道済は守りを固めて戦わず、姚紹はこれを攻めたものの勝利できず、大軍を持って再度迫った。 檀道済が王敬、沈林子らを率いて、姚紹軍を迎撃すると、これに動揺して兵士が散じたため、定城へ退却した。姚紹は武衛将軍・姚鸞に命じて、東晋軍の糧道を絶たせた。 姚紹が「檀道済らは死ぬ為にわざわざ遠路やって来たのであるが、その衆は多くはない。守りを固めているのは、援軍を待っているのであろう。軍を分けて糧道を絶てば、ひと月もせずして檀道済らの首を挙げることができよう。檀道済らを捕えてしまえば、裕の計は失敗するであろう」と諸将に向かって言った。しかし、輔国将軍・胡翼度が「軍勢を分けるべきではありません。軍を分けると人心が動揺することとなります。このまま戦うべきです」と言うと、紹は思いとどまった。 沈林子が精鋭を選び、姚鸞軍に夜襲を仕掛けた。姚鸞は討死、軍は壊滅して死者は9千人に及んだ。姚紹は姚讃を遣わして、東晋軍の水上路を断った。沈林子の攻撃に姚讃は敗れて、定城に退却した。 4月、姚紹は左長史・姚洽、寧朔将軍・安鸞、護軍・姚墨蠡、河東郡太守・唐小方らに3千の兵を率いて、九原(内モンゴル自治区包頭市)にて東晋軍の糧道を断つように命じた。姚洽は「今や兵も少なくなっており、しかも遠くとあれば、公の神武をもってしても及ばないのではないでしょうか」と危惧したが、姚紹は聞かなかった。沈林子が8千を率いて迎撃、姚洽は戦死、軍は壊滅した。 姚紹は姚洽らが敗れたと聞き、怒りのあまり病を発し、姚讃に後事を託すと吐血して亡くなった。
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