善明の決意
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 07:45 UTC 版)
中条豊馬隊長の訓示を聞いた8月18日、蓮田は中条を斃して自らも「護国の鬼」となって死ぬことを決意した。蓮田は中学2年の時に肋膜炎を患い、昔から早死にすると人に予言されていた。広島文理時代の友人も蓮田の手相を見て、45、6歳か50歳に健康に注意しろと言った。ちょうどその頃、蓮田自身もそう予感していた。微熱があり病院でレントゲンを撮った蓮田は、肺門リンパ腺に病変があることを知り、その帰り道に歩きながら〈暗涙〉を飲んだこともあった。 蓮田は、家伝の名刀を所持していた。その日本刀は「加藤清正陣中ニ於テ働キノ太刀」という由緒あるものであった。10年前に広島県の福山歩兵第41連隊付だった相沢三郎中佐が白昼堂々と軍務局長・永田鉄山を日本刀で斬殺したように(相沢事件)、自身も日本刀を使いたいと蓮田は考えたが、自分には剣道の腕前がないことを考え、確実な手段の拳銃を使うことにした。蓮田は、宮城前広場から携えて来た〈さゞれ石〉のような小球体の弾丸を数弾込めた(出典では実際に〈さゞれ石〉が弾丸として使用されたとされる記載もあり)。 8月19日の早朝7時半頃、蓮田は胸に略綬を付け、拳銃と双眼鏡のベルトを交叉させて背嚢を負った完全軍装に純白の手袋をして、鳥越大尉の副官室を訪れた。「話がある」と蓮田は副官に言ったが、手榴弾の自決者が2名出たため、鳥越副官は急いでオートバイでその後始末に向い、部屋に戻ったのは11時半すぎであった。その時、蓮田はまだ副官室にいた。目撃者によると、蓮田は、鳥越副官が外出している間、連隊長室に行っていたらしく、長時間に亘り中条連隊長を強く諌めていたのだろうと功績係の後藤包軍曹は推測していた。 その後、鳥越の副官室で4名の幹部士官(河村大尉、田中大尉、高木大尉、塚本少尉)も加わり、計6名で昼食会となったが、蓮田はそこでも、高木大尉と日本の将来について議論となった。高木大尉は中条連隊長の肩を持ち、これからの日本で誰が一番偉いか子供に聞けば、ルーズベルトや蔣介石の名を出ると言い、天皇と答える者はいなくなると投げやりな態度をとった。 蓮田は、「そんな莫迦なことは断じてない。日本が続くかぎり、日本民族が存続するかぎり、天皇が最高であり、誰が教えなくとも、日本の子供であるかぎり、天皇を至尊と讃える」と激しく反論するが、高木大尉は、敗けてそんなことを言っても無駄だとし、「あんたの単なる理想」だと軽くうけ流した。蓮田は高木大尉に食い下がり、「敗けたからこそ、なお必要ではないか!」と叫び、2人の議論は噛み合わなかった。 「冗談じゃねえ。はたして生きて帰れるか、どうか、わからん我々なんだぜ。連隊長殿(中条豊馬)の話のとおり、くだらん理屈をこいて暇をつぶすより、どうしたら生きて帰れるかちゅう手段を、真剣に考える秋じゃあるまいか?」と、高木大尉はたたみかけた。「生きて帰ろうと、死んで帰ろうと、我々は日本精神だけは断じて忘れてはならん!」と善明は声を荒らげた。 — 小高根二郎「蓮田善明とその死」 その後、田中大尉が「飯がまずくなる」と論争を止めて、会食は終った。
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