善戦の理由
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 18:45 UTC 版)
楠木党は敗北したとはいえ、幕府の正規軍に対し大きな損害を与えることができた。 一次史料の『楠木合戦注文』からわかるのは、鎌倉武士が太刀を用いて戦ったこと、それに対し悪党が弓矢を用いて効果的に戦ったことである。これは、鎌倉末期に生じた武器開発技術の革命を反映している。 古来、武士道を「弓馬の道」と言うように、騎射(弓騎兵)こそが武士の戦の本流だった。ところが、鎬地に棒樋(みぞ)を掘ったり、刀身の重ねを薄くする刀の軽量化技術が開発されると、太刀を長大化することが可能になり、騎射から馬上打物(日本刀による馬上での一撃戦)が武士の主流の戦法となった。 一方、弓矢では複合弓の開発が進み、平安末期には既に弓の背側(弦とは反対側)に苦竹を伏せた外竹弓(とだけゆみ)が作られていたが、その後、腹側にも苦竹を伏せた三枚打弓(さんまいうちゆみ)が開発された。これにより、射程が飛躍的に向上して、馬を買う財力がない歩兵でも、遠方から射ることで、騎兵に対抗できるようになった。弓矢が強力になったのは刀工が増えたこととも関係しており、甲冑を破壊するのには刀工によって打たれた金磁頭という従来より強靭で重い矢尻が用いられた。 とはいえ、歩射だけで騎兵に対抗できる訳ではなく、1332年12月中に楠木正成は野戦では連戦連敗しており、勝率が持ち直したのは翌年1月に入ってからである。しかしそれも作戦のうちであり、畿内の野戦で派手に暴れることによって、味方を増やし籠城用の兵糧を確保すると共に、幕府に大軍を動員させ、騎兵が活躍しにくく弓矢を最大限効果的に使えるように設計された上赤坂城(と千早城)に引きつけることで、多大の損害を与えることに成功した。 また、『太平記』では上赤坂城の戦いと千早城の戦いが連戦であるかのように描かれるが、実際は並行して攻撃が行われており、幕府軍の兵力を分散させることに成功している。 なお、しばしば「幕府は上赤坂城の用水設備を破壊したために勝てた」と言われるが、それは軍記物『太平記』の記述であり、史実としてそのような戦術が実際にあったかどうかは、否定もできないが肯定もできない。
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