善明との出会いと画家活動
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「いわさきちひろ」の記事における「善明との出会いと画家活動」の解説
1946年(27歳)1月、宮沢賢治のヒューマニズム思想に強い共感を抱いていたちひろは、日本共産党の演説に深く感銘し、勉強会に参加したのち入党した。5月には党宣伝部の芸術学校(後の日本美術会付属日本民主主義美術研究所、通称「民美」)で学ぶため、両親に相談することなく上京した。 東京では人民新聞社の記者として働き、また丸木俊に師事してデッサンを学んだ。この頃から数々の絵の仕事を手がけるようになり、紙芝居『お母さんの話』(1949年)をきっかけに画家として自立する決心をした。 画家としての多忙な日々を送っていたちひろだったが、1949年(30歳)の夏、党支部会議で演説する青年松本善明と出会う。2人は党員として顔を合わせるうちに好意を抱くようになり、ある時ちひろが言った何気ない言葉から、結婚する決心をした。翌1950年1月21日、レーニンの命日を選び、2人きりのつましい結婚式を挙げた。ちひろは31歳、善明は23歳であった。結婚にあたって2人が交わした誓約書が残っている。そこには、日本共産党員としての熱い情熱と、お互いの立場、特に画家として生きようとするちひろの立場を尊重しようとする姿勢とが記されている。 1950年、善明はちひろと相談の上で弁護士を目指し、ちひろは絵を描いて生活を支えた。1951年4月、ちひろは長男・松本猛を出産するが、狭い借間で赤ん坊を抱えて画家の仕事を続けることは困難であった。6月、2人はやむを得ず長野県北安曇郡松川村に開拓農民として移住していたちひろの両親のもとに猛を預けることにした。 ちひろは猛に会いたさに、片道10時間近くかけて信州に通った。猛を預けてからも、当然ながら猛に与えるはずの乳は毎日張る。初めのうちは自ら絞って捨てていたが、実際に赤ん坊に与えなければ出なくなってしまうのではないか、猛に会って授乳する時に充分出なくなってしまうのではないか、と懸念したちひろは、当時近所に住んでいた子供が生まれたばかりの夫婦に頼み、授乳させてもらった。ちなみに、その乳飲み子は後にタレントとなる三宅裕司だった。 善明は、1951年に司法試験に合格し、1952年4月に司法修習生となる。ちょうどそのころ、練馬区下石神井の妹・世史子一家の隣に家を建て、ようやく親子そろった生活を送ることができるようになった。善明は1954年4月に弁護士の仕事を始めて自由法曹団に入り、弁護士として近江絹糸争議、メーデー事件、松川事件などにかかわり、ちひろは夫を背後から支えた。 善明によれば、まだ司法修習生だった1954年、自宅に泥棒が入って私信を盗まれたり、執拗な尾行を受けたり、家政婦として住み込みで働いていた若い女性が外出中に誘拐され、ちひろの家族のことを事細かに聞かれたが隙を見て逃げ出した、と語る出来事などがあった。一連の出来事は陰湿なスパイ事件であったが、ちひろは沈着冷静に対処していたと回顧している。 1963年、善明は日本共産党から衆議院議員(東京4区)に立候補し落選したものの、1967年に初当選した。ちひろは画家、1児の母、老親の世話、大所帯の主婦としての活動と並行して国会議員の妻として忙しい日を送ることになる。
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