善明との出会いと画家活動とは? わかりやすく解説

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善明との出会いと画家活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 04:41 UTC 版)

いわさきちひろ」の記事における「善明との出会いと画家活動」の解説

1946年27歳1月宮沢賢治ヒューマニズム思想に強い共感抱いていたちひろは、日本共産党演説深く感銘し勉強会参加したのち入党した5月には党宣伝部芸術学校(後の日本美術会付属日本民主主義美術研究所通称「民美」)で学ぶため、両親相談することなく上京した東京では人民新聞社の記者として働き、また丸木俊師事してデッサン学んだこの頃から数々の絵の仕事手がけるようになり、紙芝居お母さんの話』(1949年)をきっかけ画家として自立する決心をした。 画家としての多忙な日々送っていたちひろだったが、1949年30歳)の夏、党支部会議で演説する青年松本善明出会う2人党員として顔を合わせるうちに好意を抱くようになり、ある時ちひろが言った何気ない言葉から、結婚する決心をした。翌1950年1月21日レーニン命日選び2人きりのつましい結婚式挙げた。ちひろは31歳、善明は23歳であった結婚にあたって2人交わした誓約書残っている。そこには、日本共産党としての熱い情熱と、お互い立場、特に画家として生きようとするちひろの立場尊重しようとする姿勢とが記されている。 1950年、善明はちひろと相談の上弁護士目指し、ちひろは絵を描いて生活を支えた1951年4月、ちひろは長男松本猛出産するが、狭い借間赤ん坊抱えて画家仕事続けることは困難であった6月2人やむを得ず長野県北安曇郡松川村開拓農民として移住していたちひろの両親のもとに猛を預けることにした。 ちひろは猛に会いたさに、片道10時間近くかけて信州通った。猛を預けてからも、当然ながら猛に与えるはずの乳は毎日張る初めのうちは自ら絞って捨てていたが、実際に赤ん坊与えなければなくなってしまうのではないか猛に会って授乳する時に充分なくなってしまうのではないか、と懸念したちひろは、当時近所住んでいた子供生まれたばかりの夫婦頼み授乳させてもらったちなみに、その乳飲み子は後にタレントとなる三宅裕司だった。 善明は、1951年司法試験合格し1952年4月司法修習生となる。ちょうどそのころ、練馬区下石神井の妹・世史子一家の隣に家を建て、ようやく親子そろった生活を送ることができるようになった。善明は1954年4月弁護士仕事始めて自由法曹団入り弁護士として近江絹糸争議メーデー事件松川事件などにかかわり、ちひろは夫を背後から支えた。 善明によれば、まだ司法修習生だった1954年自宅泥棒入って私信盗まれたり、執拗な尾行受けたり家政婦として住み込み働いていた若い女性外出中に誘拐され、ちひろの家族のことを事細かに聞かれたが隙を見て逃げ出した、と語る出来事などがあった。一連の出来事陰湿なスパイ事件であったが、ちひろは沈着冷静対処していたと回顧している。 1963年、善明は日本共産党から衆議院議員東京4区)に立候補し落選したものの、1967年初当選した。ちひろは画家1児の母、老親世話大所帯主婦としての活動並行して国会議員の妻として忙しい日を送ることになる。

※この「善明との出会いと画家活動」の解説は、「いわさきちひろ」の解説の一部です。
「善明との出会いと画家活動」を含む「いわさきちひろ」の記事については、「いわさきちひろ」の概要を参照ください。

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