NJEの設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/09 01:05 UTC 版)
「日本ジェットエンジン」の記事における「NJEの設立」の解説
最初の富士重工に金は出せたものの、石川島播磨重工業などが次々に提案をしてきたため、とても各社に資金を供出するわけには行かなくなり、希望各社に対して共同出資で会社を設立するように指導した。そこで、石川島播磨、富士重工、富士精密、新三菱の4社が共同出資して資本金1億6千万円の日本ジェットエンジン株式会社(NJE)を設立した。 NJEは最盛期には180人の従業員を従え、部長クラスは戦前の航空技術者が就いて率いた。また、戦前の航空産業を知る技術者たちは、軍人、つまりは役人が技術も知らないのに注文ばかりしてくることに苦しんだため、官庁からの天下りは全て拒否した。 NJEは富士から引き継いだJO-1の研究を続けるとともに、独自に推力3トンのJ1の計画も進めた。しかし計画を進めるためには10億円(当時)ほどが必要と見積もられ、これを開発と会社設立をけしかけた通産省が大蔵省(現財務省)から引き出してくれるだろうと考えていた。 ところが、最初に意気込んでジェットエンジン開発をけしかけたはずの通産省は、欧米のあまりに進んだエンジン技術を見るにつけ、次第に弱気になっていた。大蔵省にもエンジンの国内開発の重要性を説明できずに予算を勝ち取ることもできなかった。いっそのこと防衛庁がやらせているように、アメリカ製エンジンのライセンス生産のほうが、開発費もかからずに技術のおいしいところだけ取得できるのではないか、などと考え始めていた。開発を決定する前、世界のジェットエンジン技術がどうなっているかを知らず、勢いに任せて提案しただけだったのである。 通産省の募集に乗り、通産省の指導で会社を設立し、すでに国産開発という方針を定めてしまったNJEは開発費を取得できず、自分たちを見放しつつあった通産省を批判した。しかし豹変した通産省の冷たい姿勢は変わらず、見通しは全くつかなくなった。実用的な大型エンジンの開発を計画していたが、結局J1よりもさらに小型のエンジン開発に後退してしまった。 そんな折、防衛庁から「推力1トン程度の小型ジェットエンジンを搭載した航空機を求めている」といった声がもれてきた。これが後に中等練習機T-1となる機体である。日本初のジェット練習機であるT-1は、搭載するターボジェットエンジンもまた国産品であることが望まれた。エンジンは機体の開発とほぼ同時に進められることとなったが、1955年(昭和30年)5月に、T-1搭載の試作エンジンXJ3への要求が防衛庁から寄せられ、12月には庁議でエンジン試作が決定し、翌1956年(昭和31年)3月末にNJEと防衛庁でエンジン試作の契約を行った。 エンジンの設計、開発はほぼ順調に進み、6月末には後にJ3と名づけられる試作エンジン(XJ3-3)が完成した。しかし、11月からの試運転では至るところで故障、破壊が相次ぎ、問題は山積みとなった。12月には初号機が防衛庁に納入されたが、庁内でもやはり問題が相次ぎ、使い物になるにはおよそ2年半を費やした。 XJ3エンジンが量産に移れないことはNJEを焦らせていた。T-1量産第一期の20機には間に合わず、第二期の20機にも間に合わず(これらは試作機6機とあわせてT-1Aとなった)、第三期の20機でようやく量産化できる見込みとなった。
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