KBO時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 03:23 UTC 版)
1983年に本名の張明夫の登録名で、創設2年目の韓国プロ野球・三美スーパースターズに入団。契約金、年俸ともに4000万ウォン(約1400万円、当時)。当時の韓国球界ではこれが上限の金額だった。「今行かなければ、チャンスは今後訪れないかもしれない。まだボールの切れで勝負できるうちにと思って。母国で野球をやることができるのなら、金額についてそれほどこだわりはない」と渡韓の決意を語った。 同年登板60試合で36完投、427イニング1/3投球、30勝16敗6セーブと驚異的な成績で最多勝を獲得。当時の韓国プロ野球の試合数は前後期制の100試合で、この年の三美の成績は52勝47敗1引き分けで3位だった。チームの試合と勝利のおよそ60%を担い、前年の前後期制80試合で15勝65敗の最下位だったチームをAクラスに引き上げる、文字通りの牽引役になった。この36完投、30勝は現在でも韓国プロ野球記録であり、また創成期の韓国プロ野球のレベルを物語るエピソードである。 この凄まじい記録の裏側には、シーズン前、球団社長が「30勝をすれば、1億ウォン(当時のレートで約2500万円)のボーナスを追加してくれる」という言質があった。社長はまさか100試合制で30勝が可能だとは思わず出した発言だったが、これを口頭契約と信じ込んだ福士は30勝を満たそうと状況を問わず、勝利のチャンスがあれば登板して投げ込んだ。しかし、目標を達成しようという焦りから、降板を巡って首脳陣と言い争いをすることもあった。しかし、記録の達成を目にした社長が、オーナーの裁可もなしで発した自分の一言に責任を避けようと、上述の「1億ウォンのボーナス」発言について知らないふりをしたため、福士は球団に対して不信感を持つようになった。 翌1984年もスーパースターズと契約して試合には出たが、すでに意欲を喪失していた。前年の疲労も溜まっており、投げ出しに近い状態で負けを重ね、13勝20敗と成績を落とした。また、同年から投手コーチも兼任し始めたが、他球団からトレードで獲得した3選手の育成に失敗した事も影響し、チームは最下位に逆戻りした。 翌1985年も同じような投球で11勝は挙げたが、シーズン25敗の韓国記録を作り、1986年にピングレ・イーグルスに移籍。年齢から来る衰えに逆らえず、1勝18敗の惨たんたる成績に終わり、同年のシーズン中に現役引退。 当時の韓国プロ野球投手は力任せの投球が主流だったが、福士は日本のプロ野球で養われた打者との駆け引きの巧さで力を省く技術を韓国プロ野球に伝えレベルアップに貢献した。韓国では一見茫洋とした顔つきな上、一度も内角に投げなかったこと(オープン戦で打者に当てて強いブーイングを浴びたため)から悪賢いというイメージをもたれ「ノグリ(너구리)(タヌキ)」というニックネームがついた。 その一方で福士自身は前述の力任せの投球やラフプレーの多さを見て「日本のプロ野球の方が何年も先輩なのだから見習っても良いのではないか」と感じていたという。
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