ISILの攻撃
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「ラッカの戦い (シリア内戦)」の記事における「ISILの攻撃」の解説
ラッカが反体制派の支配下にあった2013年12月7日、ヌスラ戦線の管理する検問所でISILのサウジアラビア人戦闘員が殺害された。これによりISILとヌスラ戦線の対立が高まり、7日深夜から8日未明にかけて市内の検問所で戦闘が行われた。 12月の間にISILは、福祉施設や「ラッカ国境なき記者団」の拠点を襲撃したり、ラッカ市内の国立病院に配備予定だった救急車両5台を強奪したり 、反体制活動家の機関紙『タラア・ナー・ア・フッリーヤ』1000部以上などを焼却するなど、他の反体制派と対立を深めた。 ラッカ市では、ヌスラ戦線とシャーム自由人イスラム運動がラッカ県知事公邸を、ISILが県庁舎・市庁舎を本部として対峙していた。2014年1月5日、市内の複数地区でヌスラ戦線が反ISILデモを展開し、イスラム戦線(シャーム自由人イスラム運動など)とともにISIL本部があるラッカの県庁舎・市庁舎を包囲して無血開城を求めた。さらにISIL拠点のひとつを開放し、自由シリア軍兵士50人を解放した。6日、ラッカ県各地でISILの撤退が相次ぎ、ラッカ県一帯の部族に強い影響力を持つフザイファ大隊がISILからヌスラ戦線に寝返った。 7日時点でISILはラッカ市の県・市庁舎一帯の300~400メートルの一帯でイスラム戦線などに包囲されていた。8日には戦闘がフィルドゥース地区一帯に拡大し、国家治安局地区がISILに占領された。逆にISILが拠点としていた政治治安局はヌスラ戦線に制圧された。10日、ISILはマシュラブ地区やウワイス・カルニー廟モスク(ヌスラ戦線本部)を襲撃、一時制圧した。その後、マシュラブ地区西側の検問所に再集結したという。フィルドゥース地区でもISILとヌスラ戦線との戦闘が拡大した。ISILはラッカ県への兵站路を確保し続けることで優位に立つようになった。 11日、ISILは市内の鉄道駅と併設されていた検問所を制圧した。また、戦闘で死亡したISIL戦闘員の遺体数十体がラッカ国立病院に搬送され、安置されたが、イスラム戦線やヌスラ戦線の戦闘員がザジュラ村に遺棄された。 13日までにISILは市の大部分を占領し、イドハール交差点、電力会社、現代医学病院などで戦闘が行われたが、ヌスラ戦線など最後まで戦っていた反体制派が撤退したことによって14日にラッカを完全制圧した。
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ISILの攻撃
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詳細は「パルミラ攻防戦 (2015年5月)(英語版)」を参照 2015年5月12日夜、ISによるパルミラ攻撃が行われた。15日までに政府軍の兵士73人と、IS戦闘員65人の計138人が死亡し、ISはパルミラ遺跡の1km先にまで迫った。シリア人権監視団によると、ISは占領したパルミラ近郊の村落で、「政権の協力者」として民間人を26人以上処刑(うち10人は斬首)した。14日シリア文化財博物館総局長のマムーン・アブドルカリムは「ISがパルミラに入ればパルミラは破壊され、国際的な大惨事になる」として、国際社会の行動を求めた。ユネスコ事務局長イリナ・ボコヴァは、シリア政府軍とISにパルミラ遺跡を破壊しないよう呼びかけた。 17日にはパルミラ北部の大半がISに占領され、激しい戦闘が行われた。 20日夜から21日にかけてISは政府軍情報機関基地・軍空港・刑務所などを制圧し、政府軍は撤退した。21日、ISはパルミラ市を完全に占領し、これによりISがシリア国土の半分を支配したと報道された。 パルミラ陥落の背景には、シリア政府が重要な地域の確保を優先した結果とする見方もあった。つまりダマスカス・沿岸部・ハマー・ホムス、およびダマスカス-ベイルート、ダマスカス-ホムスを結ぶ幹線道路に戦力を集中し、パルミラなどからは撤退するというものである。
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