GP参戦
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1983年、キング・ケニーのチームメイトとしてマールボロ・ヤマハ・チームと契約し、GP500ccクラス参戦を開始した。翌1984年にはライバルと言われたスペンサーのタイトル防衛を阻止し、早くも初のチャンピオンの座に就いた。1986年と1988年にも圧倒的な強さを見せてチャンピオンを獲得。しかし、88年のシーズン後、チームオーナーのジャコモ・アゴスチーニから「マールボロがスポンサーフィーを減らすので、来年は契約金を減額しなければならない。」という話を聞かされる。チャンピオンを獲得したにも関わらず、ギャラが落ちてしまうことに納得いかなかったローソンは、フィリップモリスのオフィスを訪れ、スポンサー料を増額してもらうよう直談判する。ところがその時に、フィリップモリスがチームへのスポンサーフィーを本当は大幅に増額する予定だったことを知る。一連の話をローソンから聞いたフィリップモリスは、この場で納得できるギャラを払って直接契約しようとまで提案した。しかし、アゴスチーニの嘘に腹を立て、チームと仕事をする意思を失っていたローソンは、フィリップモリスの提案を丁寧に断り、この年限りでヤマハを離脱した。 ヤマハで3度チャンピオンになったローソンだが、1989年にロスマンズ・カネモト・ホンダ・チームに電撃移籍。ヤマハのウェイン・レイニーやホンダのトップワークスチームのワイン・ガードナーを破り、ホンダ移籍の初年度にチャンピオンとなった。シーズン前のテストで右手を負傷しアクセルやブレーキの操作に支障を来すというハンデを抱えながら、シーズン中に13個ものフレーム変更とテストをこなしシーズン序盤にポイントを稼いでいたレイニーをじわじわと追い詰め、終盤で逆転するというステディぶりを見せた。しかし、来季の契約に向けて、ホンダはチャンピオンになったローソンに前年と同様の契約金というとても納得のいかない条件のオファーしか出さず、またも契約金絡みでチームを離脱することになってしまった。 1990年に再びヤマハに移籍。ただし、以前所属していたチーム・アゴスチーニではなく、チーム・ロバーツからの参戦だった。これは、この年ロバーツのチームのメインスポンサーになったマールボロが、ローソンに対してホンダの2倍の契約金を用意していたことも影響していた。第2戦のアメリカグランプリにてブレーキトラブルにより転倒し踵を骨折し、長期欠場を余儀なくされてしまった。第8戦のオランダグランプリからようやく復帰。復帰後の8戦全レースでポイントを獲得し、そのうち6戦で表彰台に上がっている。負傷欠場が響き未勝利でランキング7位となった。 1991年にカジバ・チームに移籍。移籍の際には「あと2年で引退する」ことと「カジバを必ず優勝させる」こと。そして「この公約はどれだけのサラリーを積まれても決して覆さない」と宣言。それまでのステディなイメージとは異なり激しく攻めるレースを見せたが表彰台獲得が精一杯であった。翌1992年はダンロップタイヤへの変更も有り更に成績を落としてしまうが、雨に見舞われたハンガリーグランプリに於いて路面がウェットからドライに変わっていく難しいコンディションでインターミディエイトタイヤをチョイスするというギャンブル作戦が当たり、チームに念願の初優勝をもたらす。ローソンの地道なバイク開発が最後に実を結んだ。 移籍当時に宣言していた通り、この年限りでローソンはWGPを引退。その後は2輪レースの他に4輪レースにも出場し、アメリカでインディ・ライツにスポット参戦。1994年にはフル参戦しランキング4位。1996年にはCART(現チャンプカー)に参戦した。
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