Brave Blossoms誕生
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「ラグビー日本代表」の記事における「Brave Blossoms誕生」の解説
ラグビーワールドカップ2003は4戦全敗 (3大会連続の全敗) でプール敗退となったが、初戦のスコットランド戦で11−32と健闘したことから、地元オーストラリアの新聞コラムで記者のRich Freemanが「Brave Blossoms」(勇敢な桜たち)というニックネームをつけた。これがラグビー日本代表の愛称となる。 向井監督は「世界の背中が見えた」とコメントしたが、大会終了後に向井監督と宿澤強化委員長が辞任した。 迷走時代突入 2004年3月22日、神戸製鋼コベルコスティーラーズのヘッドコーチだった萩本光威が監督に就任。萩本は就任当初、同年のスーパーパワーズカップでロシアとカナダを破って優勝に導き、幸先のよいスタートを切ったかに思われたが、続くイタリアには敗戦した。同年11月の欧州遠征において、スコットランドに8-100、ルーマニアに10-25、ウェールズに0-98 と、いずれも完敗ないし大敗したため、直後に監督解任論が噴出した。 しかし、萩本監督解任を唱えた向井昭吾、春口廣、清宮克幸の3名が、ラグビー協会内の監督評価機関である8強会議(世界8強進出対策会議)の委員を解任された。また、欧州遠征と前後して、日本代表のフィットネスコーチ、選手2名が相次いで深夜未明の繁華街でのトラブルで合宿中に逮捕される不祥事が起きた が、監督の萩本には協会規定で最も軽い「警告」という処分にとどまった。 翌2005年の南米遠征でウルグアイ、アルゼンチンに連敗。さらに5月から6月にかけて、カナダ、アイルランド (2試合)にもそれぞれ配線した ため、萩本は監督を辞任した。 ヘッドコーチ制を導入 これを契機に、強化委員長・監督という指導体制に限界を感じた日本ラグビー協会は、海外で一般的になっている分業制を導入し、ヘッドコーチ(HC)はコーチたちのリーダーとして現場で指揮をとり、ゼネラルマネージャー(GM)はチーム強化に関する総合マネジメントを行う体制に変わることになった。これにより、親代わりのように各選手のマネジメントまで行う 学生ラグビーの監督などと異なり、日本文化に詳しくない外国人であっても、現場指揮だけに徹する人材としてヘッドコーチに起用することが可能になった。 2005年8月、初代GMにNECグリーンロケッツの太田治、HCには、初の外国人指導者となるジャン=ピエール・エリサルドが就いた。新体制下の日本代表は、いきなりテストマッチ4連勝を果たし 上々の滑り出しとなったかに思われたが、2006年、第1回のパシフィック・ネーションズ・カップ(PNC)では全く歯が立たず、4戦全敗 で最下位に終わった。 兼業ヘッドコーチを解任 2006年9月、エリサルドHCが、フランスのクラブチームアビロン・バイヨンヌのスポーツマネジャーにも就任したことが判明。日本協会はHCに専念するよう求めたが、そもそも雇用契約ではなく、他チームとの兼任も可能な業務委託契約としてHCに就任しているエリサルドはこれを拒否。日本協会は、ワールドカップまであと10か月というタイミングの10月31日付でエリサルドを解任した。 その後2ヶ月は、暫定的にGMの太田治がHCを兼務することになった。そして太田は、かつてのチームメイト(NEC)であり、第1回W杯におけるニュージーランド優勝の立役者のジョン・カーワンに白羽の矢を立てることになる。
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