6世紀:ユスティニアヌス大帝の活躍
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「ビザンツ帝国海軍」の記事における「6世紀:ユスティニアヌス大帝の活躍」の解説
6世紀、この時代はローマ海軍の勢力が回復する転換点となった。508年、東ゴート王国のテオドリック大王との対立が激化し、ビザンツ皇帝アナスタシウス1世はイタリア半島沿岸部に100隻の艦隊を派遣して沿岸部を襲撃させたと伝わっている 。513年には、ビザンツ帝国の将軍Vitalianがアナスタシウス1世に反旗を翻した。Vitalian将軍は200隻の艦隊を率いており緒戦は帝国に対して優勢だったものの、結局、帝国の海軍提督Marinusに敗れた。Marinus提督は反乱鎮圧戦において、硫黄ベースの焼夷性武器を利用して敵艦隊を鎮圧したとされている。 533年、ヴァンダル王国支配下のサルディーニャ島で王国に対する反乱が発生し、ヴァンダル王は反乱鎮圧のためにサルディーニャ島に向けて艦隊を派遣していた。この隙をついて、ビザンツ皇帝ユスティニアヌス1世は北アフリカに向けてヴァンダル王国討伐軍を派遣した。これより帝国と王国の間でヴァンダル戦争が開始。ユスティニアヌス大帝の西方再征服戦争の幕開けとなった。ユスティニアヌス大帝は、自身の腹心ベリサリウスを総司令官に任じ、15,000人の軍勢を彼に預けて92隻の戦艦に護衛させた500隻の輸送船 で北アフリカまで進軍させた。この戦争は二方面作戦を中心とした戦略をとっていたが、それはビザンツ帝国が地中海の制海権を握っていたからこそ可能な作戦であった。この戦争では、ビザンツ艦隊は補給物資の輸送や遠征で広範囲に分散したビザンツ遠征軍や征服地の守備隊に対する援軍輸送などで大きな役割を担った。しかしこの作戦はビザンツ帝国の敵には通用しなかった。すでに520年代にはテオドリック大王はビザンツ帝国やヴァンダル王国に対応するために大規模な東ゴート艦隊を建設し始めていた。しかしテオドリック大王は535年に死去してしまい、彼の計画は完遂されなかった。535年、東ゴート戦争が勃発した。ビザンツ帝国は二方面から王国に侵攻し、ベリサリウス率いる帝国艦隊はシチリア島に上陸した上でそのままイタリア半島に侵攻。また帝国陸軍はダルマチア方面よりイタリア半島に陸路で侵攻した。地中海における制海権により帝国は大いに有利な立場に立つことができ、540年までに、より少数の部隊で首尾良くイタリア半島を制圧することを可能にしたと言う。 しかし、541年、東ゴート王トーティラは400隻からなる東ゴート艦隊を建築し、イタリア半島沿岸におけるビザンツ帝国の一方的な覇権を喪失させた。542年にはビザンツ帝国の2つの艦隊をナポリ沖で打ち破った 。546年には、ベリサリウス将軍は200隻の艦隊を率いてティヴェレ川河口を守備していた東ゴート艦隊と衝突した。結果は芳しくなく、ベリサリウスは東ゴート軍に占領されていたローマを解放することはできなかった。550年には、トーティラ王はシチリア島・コルシカ島を占領し、ケルキラ島・エピルスを襲撃した 。しかし551年、47隻の東ゴート艦隊は50隻のビザンツ艦隊と現在のセニガッリアで激突し、ビザンツに敗北した。(←戦闘の詳細はセナ・ガリッカの戦い(英語版)へ)この戦いでの東ゴートの敗北は、最後のビザンツ帝国によるイタリア支配の始まりとなった 。ユスティニアヌス大帝はその治世下で、イタリア半島・南スペイン(スパニア(英語版))を再征服し、地中海は再びローマの湖と化した。 その後ビザンツ帝国はイタリア半島の大半をランゴバルド人に奪われてしまうのだが、依然としてイタリア半島周辺の海域における制海権は確保し続けた。ランゴバルド人は海を超えた遠征をあまり行わなかったために、帝国は半島周辺の海域を通じて半島沿岸部のごく一部地域をその後数世紀にわたって占領し続らことができた。その後80年間の期間に地中海にて発生した大規模な海戦は、626年にスラブ人・サーサーン朝ペルシア・アヴァール人が引き起こしたコンスタンティノープル包囲戦の際に発生したもののみである。この包囲戦では、スラブ人のボスポラス海峡横断の試みをビザンツ艦隊が妨害し、ペルシア軍による海峡通過を阻止。結果、彼らの同盟者・アヴァール人を撤退に追い込むことになった。
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