201系の投入
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103系統一後、車種の入れ替えがなかった京阪神緩行線に、13年ぶりの新車として関西初のスカイブルーの201系が1982年12月に高槻に新製配置され、翌1983年1月21日には訓練運転を開始して2月21日から営業運転を開始、3月までに10編成が投入された。201系の投入は1981年の中央線快速(試作車は1979年登場)、1982年の中央・総武線各駅停車に次いで3路線目だった。 103系のときと違い、素早い新車投入であったが、これには片町線・関西本線の101系の早期置き換えと、他線に比べて低い両線の冷房化率の向上という背景があった。関西本線の101系は、前年8月の台風10号で王寺駅構内の留置線が冠水したことにより101系が大量に廃車されたため、首都圏から廃車予定車の101系をかき集めて運行していたことから、これらの置き換えは緊急の課題となっていたものである。 この中での201系の投入は、上記2点だけでなく、京阪神緩行線の特性に必ずしも合致していない103系[独自研究?]を転出させることでスピードアップを図るという、一石三鳥の効果を狙ったものだった。実際、201系は優れた高速性能や乗り心地をもち、また、乗客からも一目で新車とわかるブラックフェイスと明るい内装は好評を持って迎えられただけでなく、並行私鉄と比べても遜色のない車両であったことから、新快速の117系同様、防戦一方の国鉄のカウンターアタックのシンボルとなった。 201系の第2次投入は1983年6月から9月にかけて実施され、6編成が明石電車区に配属されて103系を捻出し、片町・関西本線の101系を置き換えた。 201系の投入ピッチは早く、1983年の12月から1984年3月にかけて第3次投入分として7編成が明石に配属され、同年11月からは、窓の2段上昇化やナンバーの転写表記化など、より一層のコストダウンを図った「軽装車」を9編成投入、高槻電車区・明石電車区合わせて32本・224両の201系が出揃った。これによって関西本線各駅停車の103系への統一、片町線電化区間の非冷房101系の置き換えと余剰T車を活用した7両統一を実施した。 この時点で201系の割合が過半数に達したことから、1985年3月14日のダイヤ改正で201系の性能を生かしたダイヤを組むことになった。朝夕ラッシュ時には運転区間を加古川駅・草津駅まで延長した。日中時間帯は1時間に1本が加古川駅発着で運行されるとともに分割運行が解消され、高槻駅 - 大阪駅 - 西明石駅・加古川駅間の直通運転と吹田駅 - 大阪駅 - 甲子園口駅間を往復する区間運転に再編されたが、京都駅 - 高槻駅間は快速を各駅に停車させて、この区間の緩行電車(各駅停車)の運転を廃止した。現行のダイヤでもわかるように、201系であれば加古川駅 - 京都駅間を直通運行しても性能上問題はないが、そうするだけの編成数はなく、当時の状況では車両の増備もままならなかったことから、既存の車両だけで対応するには区間短縮もやむを得なかった。国鉄末期の合理化の波はこれにとどまらず、1986年3月3日のダイヤ改正の際に、1線区1電車区の方針によって高槻配置の201系全編成が明石電車区に転属し、運用の合理化を図った。
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