2004/2005
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 05:18 UTC 版)
「ヤマハ・YZR-M1」の記事における「2004/2005」の解説
バレンティーノ・ロッシがヤマハと2年契約を結ぶ。伝えられるところに依ると、1シーズン600万ドルの契約であり、この移籍はプレスによって「彼が噛むことができた物より多くのものを噛み切る」と表現された。ロッシがYZR-M1をホンダ・RC211Vのレベルに引き上げることは、批評家やメディア専門家ばかりでなく多くのファンも至難の業と考えた。冬の間にホンダのマシン開発は好調に進み、マックス・ビアッジとセテ・ジベルナウがホンダに世界タイトルをもたらすのに障害は無いと考えられた。 一方、ロッシとジェレミー・バージェスだけがホンダと戦う抵抗勢力であった。バージェスはロッシのホンダ時代のチーフメカニックで、ロッシの移籍に伴って長年共に働いたクルーと共にヤマハに移籍した。これは注意すべき移籍で、ロッシは自身の自叙伝で、YZR-M1でチャンピオンシップに挑むために必要な強固な基盤を提供してくれると書き表している。 2003年から2004年の冬のテストの間に、ヤマハはロッシとバージェスと共同して最大限の努力を払い、大きな進歩を遂げた。組織的な革新とテストで、彼らはブレーキングやクイックな操縦性と言ったM1の伝統的な利点をリファインし、パワーとバランスでまとめ上げた。YZR-M1プロジェクト・リーダーの辻幸一はロッシやバージェスと密接に働き、パワー伝達の改良のため何度もエンジンを修正して実験した。最終的にシリンダーヘッドのバルブは初期型の5から4に変更された。並列4気筒エンジンは伝統的な「スクリーマー」エンジンで、クロスプレーンクランク、90度位相で270-180-90-180の不等間隔爆発であった。この点火順序はV4エンジンの恒常的な運動エネルギーを模倣し、これによってエンジンのトルク特性を大幅に向上させ、フレームとエンジンは接続位置が僅かに変更された。これによってM1はコントロールしやすいマシンとなり、コーナー脱出速度も向上した。冬の間の必死な開発とテストの後、カタルーニャで行われたIRTAのテストでロッシとM1はBMWの車に勝ち、チームは正しい方向への重要な一歩を踏み出したことを世界に示した。 恒例となっていた鈴鹿での日本GPが安全性の問題のためツインリンクもてぎで行われることとなり、2004年シーズンの開幕戦は南アフリカのウェルコムで行われることとなった。注目に値するこのレースで、ロッシは優勝を遂げ、批判者達を沈黙させるだけではなく、2つの異なるマニファクチャラーで連勝を遂げた初のライダーとなった。ロッシはこのシーズン9勝を挙げ304ポイントを得、タイトルを獲得した。ホンダのセテ・ジベルナウは257ポイントでランキング2位、マックス・ビアッジは217ポイントで3位となった。 したがって、2004年シーズンはロッシがバイクの性能では無く自身の才能でタイトルを獲得したことを証明した。彼はGPレース史上で大きな業績を成し遂げた。 YZR-M1とロッシのコンビは2005年もシーズンを支配し、ロッシはホンダのマルコ・メランドリに147ポイント差を付けてタイトルを獲得した。ロッシは後に、2005年型のM1はこれまで乗ったマシンの中で最高傑作であると語っている。
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2004-2005
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「ディルク・カイト」の記事における「2004-2005」の解説
リーグ戦29得点でエールディヴィジの得点王となる。新監督ルート・フリットはカイトに大きな信頼を置き、彼に相手ペナルティエリア内だけでプレーし、正真正銘のゴールゲッターとなることを命じると、このシーズン第1節のデ・フラーフスハップ戦でカイトはフェイエノールトの最初の3得点を決めてチームは6-1で勝利し、即座にその効果が表れた。このシーズンのカイトは2トップでプレーしたサロモン・カルーと見事なクリックを見せ、お互いに多くのゴールをアシストした。ガールグループのK3にちなみ、二人はK2と名付けられた。
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