1978 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選
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1978 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選は、アジア・オセアニア地区で行われた1978 FIFAワールドカップ・予選である。アジアサッカー連盟とオセアニアサッカー連盟より21チーム、無所属のイスラエルが参加して行われた[1]。しかし、サッカー南ベトナム代表は南ベトナムが1976年にベトナムへと国号を変えサッカーベトナム代表へと編入されたため、大会には参加しなかった。本大会への出場枠は1。
予選は二つのラウンドにわかれている。
- 1次予選: 参加21チームは5つのグループに分かれて戦う。グループごとのレギュレーションは以下のとおり。
- グループ1 6チームが参加する。シンガポールを会場としてラウンドロビン方式で戦い、上位2チームがプレーオフに進出。プレーオフは一発勝負で、プレーオフの勝者が最終予選に進出。
- グループ2、3 4チームが参加する。ホームアンドアウェー方式で戦い、グループ1位が最終予選に進出。
- グループ4 4チームが参加する。カタールを会場としてラウンドロビン方式で戦う。グループ1位が最終予選に進出。
- グループ5 3チームが参加する。ホームアンドアウェー方式で戦い、グループ1位が最終予選に進出。
- 最終予選: 1次予選勝者5チームがホームアンドアウェー方式で対戦。成績最上位のチームが本大会への出場権を獲得する。
1次予選
グループ1
| 順位 | チーム | 点 | 試 | 勝 | 分 | 敗 | 得 | 失 | 差 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 6 | 4 | 2 | 2 | 0 | 9 | 5 | +4 | |
| 2 | 5 | 4 | 2 | 1 | 1 | 5 | 6 | −1 | |
| 3 | 4 | 4 | 1 | 2 | 1 | 7 | 6 | +1 | |
| 4 | 3 | 4 | 1 | 1 | 2 | 7 | 7 | 0 | |
| 5 | 2 | 4 | 1 | 0 | 3 | 8 | 12 | −4 | |
| — | 参加辞退 | ||||||||
| 1977年3月9日 | シンガポール |
0 – 4 | シンガポール | ||
| ロニー・パッティナサラニー アンジャス・アスマラ アンディ・ラーラ イスワディ・イドリス |
主審: |
香港とシンガポールがプレーオフに進出。
香港が最終予選に進出。
グループ2
| 順位 | チーム | 点 | 試 | 勝 | 分 | 敗 | 得 | 失 | 差 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 6 | 4 | 2 | 2 | 0 | 4 | 1 | +3 | |
| 2 | 5 | 4 | 2 | 1 | 1 | 5 | 3 | +2 | |
| 3 | 1 | 4 | 0 | 1 | 3 | 0 | 5 | −5 | |
| — | 参加辞退 | ||||||||
韓国が最終予選に進出。
グループ3
| 順位 | チーム | 点 | 試 | 勝 | 分 | 敗 | 得 | 失 | 差 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 8 | 4 | 4 | 0 | 0 | 8 | 0 | +8 | |
| 2 | 2 | 4 | 1 | 0 | 3 | 3 | 7 | −4 | |
| 3 | 2 | 4 | 1 | 0 | 3 | 2 | 6 | −4 | |
| — | 参加辞退 | ||||||||
イランが最終予選に進出。
グループ4
| 順位 | チーム | 点 | 試 | 勝 | 分 | 敗 | 得 | 失 | 差 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 8 | 4 | 4 | 0 | 0 | 10 | 2 | +8 | |
| 2 | 2 | 4 | 1 | 0 | 3 | 4 | 6 | −2 | |
| 3 | 2 | 4 | 1 | 0 | 3 | 3 | 9 | −6 | |
| — | 参加辞退 | ||||||||
クウェートが最終予選に進出。
グループ5
| 順位 | チーム | 点 | 試 | 勝 | 分 | 敗 | 得 | 失 | 差 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 7 | 4 | 3 | 1 | 0 | 9 | 3 | +6 | |
| 2 | 5 | 4 | 2 | 1 | 1 | 14 | 4 | +10 | |
| 3 | 0 | 4 | 0 | 0 | 4 | 1 | 17 | −16 |
| 1977年3月13日 | オーストラリア |
3 – 0 | スバ[3] | ||
| Rooney Abonyi |
主審: |
| 1977年3月16日 | チャイニーズタイペイ |
1 – 2 | スバ[3] | ||
| Fung |
Abonyi Kosmina |
主審: |
| 1977年3月20日 | ニュージーランド |
6 – 0 | オークランド | ||
| Nelson Campbell Taylor Weymouth |
主審: |
| 1977年3月23日 | チャイニーズタイペイ |
0 – 6 | オークランド[4] | ||
| Nelson Sumner B. Turner |
主審: |
オーストラリアが最終予選に進出。
最終予選
| 順位 | チーム | 点 | 試 | 勝 | 分 | 敗 | 得 | 失 | 差 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 14 | 8 | 6 | 2 | 0 | 12 | 3 | +9 | |
| 2 | 10 | 8 | 3 | 4 | 1 | 12 | 8 | +4 | |
| 3 | 9 | 8 | 4 | 1 | 3 | 13 | 8 | +5 | |
| 4 | 7 | 8 | 3 | 1 | 4 | 11 | 8 | +3 | |
| 5 | 0 | 8 | 0 | 0 | 8 | 5 | 26 | −21 |
| 1977年10月30日 | 香港 |
2 – 5 | 香港 | ||
| Tang Hung-Cheong Chung Chor-Wai |
Ollerton Abonyi Bennett |
主審: |
イランが本大会出場権を獲得した。
関連項目
脚注
外部リンク
「1978 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選」の例文・使い方・用例・文例
- 1978 年の推定ではその地方の人口は約 30 万人とされている.
- 1978年に三冠王を得たサラブレッド
- 外国諜報活動偵察法の司法認可の要求に対する手続きを定めるため、また外国諜報活動偵察法の法廷を作るため1978年にアメリカ連邦議会により通過された法令
- 積極的差別是正措置,は非常に物議をかもしていた、そして1978年のバッキ判決で異議を申し立てられた
- 外国諜報活動調査法によって1978年に作られた秘密連邦裁判所
- 南ソロモン諸島で、1978年から英連邦で独立国家を形成した
- カナダ人の生理学者(米国生まれ)で、インシュリンの発見につながる研究においてF.G.バンティングに助力した(1899年−1978年)
- メキシコの国家主義的な作品の作曲家で、インドのフォーク・ミュージックからのテーマを使用した(1899年−1978年)
- イタリア人の画家(ギリシア生まれ)で、深い影と不毛な風景が超現実主義者に強く影響を及ぼした(1888年−1978年)
- 米国の将軍で、1945年から1949年までヨーロッパの米国軍隊を指揮し、ベルリン大空輸を監督した(1897年−1978年)
- 米国のデザイナーで、椅子の斬新なシリーズで知られる(1907年−1978年)
- 米国の数学者(オーストリア生まれ)で、公理系の規制を示したことで知られる(1906年−1978年)
- 東洋の民族音楽を取り入れたアルメニアの作曲家(1903年−1978年)
- ロシアのダンサーで、ニジンスキーと踊った(1885年−1978年)
- ケニヤの政治家で独立したケニヤの初の大統領(1893年−1978年)
- ロシアの作曲家(アルメニア生まれ)で、作品がロマンチックで、フォーク・ミュージックに対する彼の関心を反映した(1903年−1978年)
- 米国の人類学者で、ポリネシア文化における青春期と性行動について主張したことで知られる(1901年−1978年)
- イスラエルの政治家(ロシア生まれ)(1898年−1978年)
- 英国の化学者(1897年−1978年)
- イタリア人の1963年から1978年までの教皇で、断食して、異教徒間の結婚のときに制限を緩和した(1897年−1978年)
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