1883-1930
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「ストックポート・カウンティFC」の記事における「1883-1930」の解説
ストックポート・カウンティは、ウィクリフ会衆派教会のメンバーでもあったストックポート日曜学校の14歳から19歳までの生徒によって、「ヒートン・ノリス・ローヴァーズ」として1883年に「マクラフリンズ・カフェ(McLaughlins Cafe)」で結成された。そして、翌年の10月に歴史的な最初の試合を行った。クラブは、ストックポートがビクトリア朝期に帽子製造業の中心地であったことから、愛称として「ザ・ハターズ(The Hatters)」を採用した。この愛称はルートン・タウンと同じである。ヒートン・ノリス・ローヴァーズは1890年に「ストックポート・カウンティ」という名前を採用し、フットボールリーグセカンドディビジョン(当時2部)に参入する1900年までランカシャーリーグに在籍した。ストックポートのフットボールリーグの最初の試合では、レスター・フォッセと対戦し、2-2の引き分けであった。1901年、当時36歳であった初の黒人プロサッカー選手のアーサー・ウォートンがストックポートに加入し、引退する1902年までに数試合出場した。チームは1902年に本拠地をグリーン・レーンから、現在のエッジリー・パークへ移した。当時エッジリーパークはラグビーチームのストックポートRFCが本拠地としていたが、そのチームは数年後に解散した。 ストックポートは、フットボールリーグに参入してからの4年間、下位3チームの中に位置し、1903-04シーズンの終わりに下部リーグへの降格が決定した。次のシーズンは「ランカシャー・コンビネーション」と「ミッドランドリーグ」に在籍し、前者のリーグでは優勝した。また、後者のリーグの成績を通じて、来季のフットボールリーグへの再参加が認められた。フットボールリーグ再参入した1905-06シーズンには初めてFAカップの1回戦に進出したが、リンカーン・シティFCに敗北した。また、リーグは全20チーム中10位という成績であった。 ストックポートは1912-13シーズンまでセカンドディビジョンで7年間在籍していたが成績が伸び悩み、再び降格の可能性が浮上したが、リーグ参入を決める選挙で22票を獲得し、残留が決まった。 チャリティーマッチでスカウトされ、1913年から1915年までストックポート・カウンティでプレーしたゴールキーパーのトーマス・エバンスは、第一次世界大戦の影響でプレー時間が短くなり、最終的には陸軍に召集された。戦争から生きて帰って来た彼は3試合に出場し、その後故郷のマン島に帰った。クラブは第一次世界大戦で亡くなった13人の元選手に敬意を表してスタジアムの外に盾を飾った。その盾は、元選手であり、RAFの退役軍人でもあるジョージ・ヘイが除幕した。 クラブは、1920-21シーズンにセカンドディビジョンで最下位となった。本来ならばフットボールリーグから降格するはずであったが、その次のシーズンから設立されることになった「フットボールリーグ・サードディビジョン・ノース」へ参入することになった。1921-22シーズンでは、ストックポート・カウンティは開幕6試合のうち5試合で勝利して、更に元旦からイースターの週末まで無敗を維持した。そして、エッジリー・パークで18500人の観客の前にダーリントンFCを破り、クラブとして初めてのフットボールリーグのタイトルを獲得した。アルバート・ウィリアムズ(当時の監督)は、優勝決定の7日後、リンカーン・シティFCとのホームゲームの前にトロフィーを授与された 。1920-21シーズンに加入したジョー・オケインはこの優勝に大きく貢献したが、シーズン終了後に退団した。 1年でセカンドディビジョンに戻ったストックポートは、その再昇格したシーズンで苦戦したが、1ポイント差で自動降格を免れた。1923-24シーズンには、マンチェスター・ユナイテッドの1つ上の13位という成績を残した。このシーズンは、クラブの歴史の中で唯一マンチェスター・ユナイテッドよりも高い順位であったシーズンであった。このシーズンのストックポート・カウンティのゴールキーパーであったハリー・ハーディは、イングランド代表に召集されて試合に出場し、ベルギーとの試合では4-0と無失点の活躍を見せた。彼は、ストックポート・カウンティに在籍していた間にイングランドA代表に召集され試合に出場した唯一の選手である。ハーディは、ストックポートに所属していた1925年にも、イングランド代表のオーストラリアツアーのメンバーに選ばれた。しかし、このツアーは「テストマッチ」という分類のため、代表記録には残っていない。 1925-26シーズンは、勝ち点25でセカンドディビジョン最下位となり、再びサードディビジョン・ノースに降格となった。1926-27シーズンはサードディビジョン・ノースで6位となったが、ジョー・スミスの登録書類がフットボールリーグに届いておらず、無登録の選手を出場させたということで勝ち点2の剥奪と100ユーロの罰金の制裁を受けた。 次の1927-28シーズンは3位となった。このシーズンでは、チームの89得点のうち38得点をジョー・スミスが決め、リーグ得点王に輝いた。ストックポートはこの後、優勝チームだけが昇格できるリーグにおいて、2シーズン連続で2位となった。その最初のシーズンである1928-29シーズンでは、チームは62もの勝ち点を獲得し、シーズン平均入場者数が初めて10000人を突破した。最後の11試合のうち9試合を勝つなどもしたが、優勝には僅か1ポイント足りなかった。その次の1929-30シーズンもまた2位となったのだが、昨季よりも良い成績であった。優勝したポート・ヴェイルFCにはクリスマスにアウェイで2-1、ボクシングデイに4-2とシーズン2勝していたが、総合成績では4ポイント差がついていた。このシーズンでは、フランク・ニュートンがチームの106得点のうち36得点を決め、リーグ得点王に輝いた。また、ニュートンは1試合5得点を1929年9月21日のネルソン戦で記録し、クラブの記録を塗り替えた。
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