1837年から1941年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/16 20:33 UTC 版)
「ミシガン州の歴史」の記事における「1837年から1941年」の解説
1840年代初期、銅と鉄鉱石の大きな鉱脈がアッパー半島で発見され、東部の州から何千という人々を惹き付けた。1835年にスーセントマリー運河が開かれ、スペリオル湖と他の五大湖地域の舟運を繋ぎ、周辺にある精錬業者に鉱石を運ぶために使われた。精錬業者の大半は五大湖岸、あるいは主要河川とそれに繋がる運河沿いにあった。 ミシガン州は南北戦争では北軍の側に付き、脱退主義者のアメリカ連合国に対抗して積極的に参戦した。戦後、地域経済は多様となり、繁栄するようになった。1870年代、製材産業が隆盛し、国内でも最大の木材生産地となった。その巨大な森林と工業化する中西部における位置付けとで、地域全体が発展した。さらに州内で酪農業や多角事業が急速に成長した。人口は1870年と1890年の間で2倍になった。19世紀の終わりに向かって、州政府は合衆国のどの州よりも公共教育に予算を振り向けるようになった。 20世紀初期、自動車産業が興り、製造業はミシガン州の収入の主要資源となった。1899年、オールズ・モーター・ビーイクル会社がデトロイトに工場を建設した。1903年、フォード・モーター会社もそこで設立された。フォード・モデルTの大量生産によってデトロイトは世界の自動車産業の首都になった。ゼネラルモーターズはデトロイトに本拠があり、フォードは近くのディアボーンに本社がある。両社はデトロイト都市圏に巨大な工業地帯を作り上げ、その例がリバールージュ工場であり、1910年代以降ミシガン州を国内製造業の指導的立場に置いた。この工業という基盤で第一次世界大戦中も軍用車両に対する大きな需要を満たし、大いに寄与した。 世界恐慌はミシガン州に厳しい経済不況を生じさせた。何千という自動車産業労働者が失業し、他にも州経済の幾つかの分野の労働者が失業した。財政的苦境は、銅の残っている鉱脈が地中深くにあるという事実によって悪化させられた。他の州で発見された銅の鉱脈は浅い岩層にあり、ミシガンの鉱業は衰退して多くの坑夫が失業した。連邦政府は負の効果を消そうとして様々な手段を採用した。失業した若者を保全や清掃のような仕事で雇用する失業対策事業、資源保存市民部隊が造られた。公共事業促進局が連邦政府の別の代理部局であり、ミシガン州だけでも50万人以上の失業者を採用し、道路、建物およびダムのような公共施設の建設を行った。 この時期に、全米自動車労働組合が作られ自動車産業雇用者を代表した。この労働組合は自動車会社に、組合員である労働者のみを契約で採用させ、労使間の交渉を行うことを望んだ。フォードやゼネラルモーターズは組合と連続ストライキの主要目標にされ、その中でも重要なものはフリント・シットダウン・ストライキであり、両社とも組合の存在を認めさせられた。今日全米自動車労働組合は合衆国でも最大の組合組織であり、1941年以降国内自動車会社に雇用された労働者全ての代表となってきた。
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