1837年の反乱
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「マヌエル・アルミホ」の記事における「1837年の反乱」の解説
1837年8月に、ニューメキシコ北部の不満を抱く住民らが蜂起し、当時総督であったアルビーノ・ペレスを殺害して、州全体を掌握した(1837年の反乱)。州南部の住民らは新しい政府に反対の立場だったが、かといって反乱に対抗する反革命をリードする立場になる有力者は現れなかった。マリアーノ・チャベス(Mariano Chávez、アルミホの親類で、若いが裕福だった)はアルミホに対してこの立場をとることを勧め、アルミホも承諾した。アルミホはサンタフェに進軍して自分が知事であると宣言したが、これは反乱(総督殺害)の一報を受けたメキシコ政府が直ちに彼を総督に指名したことを受けてのものであった。ケンダルはその記述の中で、アルミホが自分で自分を総督に指名したことを知らせる書状を書いたとしているが、事実ではない。 アルミホは政府軍の派遣を要請する書簡を送り、1838年1月上旬にはカイエターノ・ユスティニアーニ大佐の率いる精鋭のベラクルス騎兵連隊が到着した。同月後半にはふたたび反乱の火の手が上がったが、アルミホの率いる軍隊がポホアキ (Pojoaque) で反乱軍を制圧した。メキシコの歴史家カルロス・マリア・ブスタマンテへ送ったアルミホの手紙によれば、彼はあくまで名目上の指揮官であって、本当に指揮を執っていたのはユスティニアーニだったという。 ケンダルをはじめとしてアメリカの作家たちは、反乱を始めさせたのはアルミホ本人であり、そして最後にはそれを自分で鎮圧したにすぎないとして批判している。その根拠として、貿易商で作家でもあるジョシア・グレッグは、アルミホの兄弟がクレッグに「ほのめかした」話として、アルミホは、反乱民らが彼を総督に推挙してくれると期待してアルバカーキからサンタフェまで行ったが、アルミホは個人的には反乱に何らの関与もしていなかったので、誰も総督として認めてはくれず、仕方なくアルバカーキに舞い戻って、今度は反乱を鎮圧する側になったというものだ。歴史家ジャネット・ルコンプテ (Janet Lecompte) は、1837年の反乱に関してアルミホが関与していたことを示す書類上の証拠が何一つないことを指摘して、これを作り話だとしている。
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