1832年解剖法 (Anatomy Act 1832)
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「イギリスの死体盗掘人」の記事における「1832年解剖法 (Anatomy Act 1832)」の解説
1828年3月のリヴァプールで、ウォリントンに埋葬されていた遺体1体を、共謀して不法に調達し受け取った罪で告訴された3人の被告人が、無罪放免となる一件が起きた。裁判長は判決文の中で、「解剖用に死体を掘り起こすことは、罪を受けるだけの法的責任があることだ」(英: "the disinterment of bodies for dissection was an offence liable to punishment")とし、議会に1828年解剖に関する特別調査委員会設立を促した。委員会は40人の証人から証言を取ったが、その内訳は医学専門職25名、公職者12名、匿名の死体盗掘人3名であった。議論されたのは解剖の重要性、解剖用遺体の調達、また解剖学者と死体盗掘人の関係性であった。委員会は人体解剖学研究に解剖は重要だと結論付け、解剖学者が貧困者の遺体を用いられるようにすべきだと推奨した。 最初の法案(英語版)は、特別調査委員会の報告書を書いたヘンリー・ウォーバトン(英語版)から、1829年に提出された。貴族院では議員から貧困者を擁護する猛烈な弁論があって否決されたが、ウォーバトンは、ジョン・ビショップとトーマス・ウィリアムズの処刑が行われた直後、そして1本目の法案提出から約2年の時に、次の法案を提出した。ビショップとウィリアムズは「ロンドン・バーカーズ」の名前で知られたが、アイルランド人コンビでスコットランド人の外科医ロバート・ノックスに遺体を供給していたウィリアム・バークとウィリアム・ヘアの連続殺人事件に着想を得ていた。バークとヘアは墓荒らしまではしなかったものの、彼らの事件は死体盗掘人の認識を、ただの冒涜者から、殺人犯予備軍にまで貶めることになった。社会に広がった不安の波は、ウォーバトンの法案が議会を通過する後押しとなり、世間から不評意見が噴出していたにもかかわらず、国会では目立った反対も無く1832年8月1日に1832年解剖法(英語版)が成立した。この法律によって、殺人犯の解剖を認めた1752年法の条文は無効となり、1世紀あまり続いた犯罪者を解剖するという慣習は終わりを迎えたが、死体泥棒そのものを妨げたり禁じたりすることはなく、死体売買も同様の扱いだった(この時点でも、遺体の法的立場は不明確なままだった)。このためウォーバトンの法案通過の原動力となった「バーキング」(英: Burking)は相変わらず実行可能な状態だった。他の条文では、本人の反対が無い限り、遺体が「解剖学的探索」(英: "anatomical examination")のために引き渡されることを認めた。貧困者はほとんどが読み書きできず、死に当たって書面で指示することも難しかったため、この条文は救貧院(ワークハウス)のような福祉施設が解剖される人を決めることを意味していた。立会人が干渉できるという条項は濫用され、解剖を妨げる発言力を持たない同房者が立会人に選ばれたり、ワークハウスの職員が金を得るために、わざと本人の意志を無視したりということもあったという。 解剖法の通過とは裏腹に、死体盗掘は日常的なままで、親戚などからの申し立ても無い貧困者の遺体供給は、当初全く需要を満たしていなかった。死体泥棒に関する報告書はこの後も数年にわたって出されており、1838年には貧民救助委員会(英語版)から、埋葬前の腐敗遺体に接触して、病気に罹り死亡した2名の死体盗掘人に関する報告書が出されている。しかしながら、その後1844年までには、遺体の取引は全く行われないようになっていった。
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