1832年 カルクブレンナーの高弟
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「カミーユ=マリー・スタマティ」の記事における「1832年 カルクブレンナーの高弟」の解説
最終的には、カルクブレンナーとの出会いがスタマティの運命を決めることになる。カルクブレンナーは、自分の流儀を受け継ぐことの出来る弟子をしばらくの間探していた。彼はショパンをその候補として考えていたが、ショパンは師であるユゼフ・エルスネルの助言に従いこれを断った。同じことはチャールズ・ハレにも起こっていた。ハレは最初、カルクブレンナーの弟子になりたいと熱望していたが、カルクブレンナーの堅苦しく、古臭い、さらにはひび割れた骨董のような演奏は彼を思いとどまらせ、別の道に進む決心をさせたのだった。 スタマティは色々な意味でカルクブレンナーの理想的な候補者像に合致した。彼は才能豊かで、大志を抱いており、さらに貧乏で公務員の仕事に飽き飽きしていた。その上、彼は口うるさいことで知られるカルクブレンナーに耐えられる人物であった。マルモンテルはするどくこう指摘している。スタマティはショパンレベルの芸術家ではなく、そのため大天才の強烈な個性というものがなく、カルクブレンナーの厳しいやり方に理想的に適していたのだ。そういうわけでカルクブレンナーは、スタマティが自作のカドリーユと変奏曲を演奏するのを聴いて彼に歩み寄り、仕事の提案を行った。彼の弟子に、また彼の代理教師にならないか、というものだ。「代理教師」というのは、後年自ら教えることの少なくなったカルクブレンナーに代わって、弟子を教えるということである。カルクブレンナーは選ばれた弟子に対して、上流の、非常に高額なピアノの授業を行っており、スタマティはそれらの授業の生徒を準備し、基礎講義を全て行った。
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