1832-1836年 ブノワ、レイハ、メンデルスゾーンの下での研鑽
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「カミーユ=マリー・スタマティ」の記事における「1832-1836年 ブノワ、レイハ、メンデルスゾーンの下での研鑽」の解説
スタマティは教師でありながらも(カルクブレンナーに監督される姿を想像するだろう)、彼は自分自身の音楽理論の勉強も怠らなかった。彼はオルガン演奏をフランソワ・ブノワに、和声学と対位法をレイハに師事した。1836年10月に彼はついにライプツィヒに行き、メンデルスゾーンに教わって自分の修業の仕上げをしようと考えた。メンデルスゾーンは1836年10月29日にヒラーに宛てた手紙で、スタマティに授けたレッスンについてこう記している。 「スタマティはこちらに滞在しており、私は対位法を教えることになった - 私は自分が対位法を熟知していなかったといわざるを得ない。彼は私が謙虚なだけだというんだがね。」 1836年10月26日には、メンデルスゾーンはヒラーに宛ててさらにスタマティのことを書いている。 「スタマティはパリへの帰途にあり、数日内にFrankfortに着くだろう。I maintain that he has got de lAllemagne and du contrepoint double par dessus les Oreilles". スタマティの名は、メンデルスゾーンの姉妹のレベッカが1836年10月4日にKarl Klingemannに送った手紙の中にも登場する。 「それにカルクブレンナーの一番弟子でパリ音楽院の学生、大衆音楽の巨匠のスタマティさんがここドイツにいらしていて、フェリックスに音楽を習っているのだけど、よりよいことを学ぶまでは演奏しないと言っているわ。」
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