1830年代:ジャクソン流民主主義
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「アメリカ合衆国民主党の歴史」の記事における「1830年代:ジャクソン流民主主義」の解説
詳細は「ジャクソン流民主主義」を参照 1830年代初頭から1850年代にかけて、民主党はジャクソン流民主主義の精神で勢いづいた。1832年の大統領選挙では、国民共和党のクレイ等が出馬したものの、大差でジャクソンに敗れた。選挙後、反ジャクソン派はホイッグ党を結党し、民主党と対立した。この時期の政治体制を第二政党制と呼び、民主・ホイッグ両党は競って各地に草の根組織を創設し、急成長する大都市にポリティカル・マシーン(集票組織)を置き、有権者数の拡大に努めた。いずれも運動資金は主に、マシーンや全国紙などの有力者からの支援に頼っていた。 この時期のアメリカでは、銀行整備と関税が主要な国内政治課題だった。民主党はエリートや貴族、合衆国銀行に反対し、産業化・近代化を掲げるホイッグ党の政策に対して、ヨーマンや零細農家を犠牲にするものだと批判した。また、新規農地獲得を主張し、東部諸州のインディアンを排斥した。民主党の支持基盤は主に農家、都市部の労働者と、アイルランド系カトリック教徒だった。特に、1830年代、急進的民主主義を唱えるニューヨーク市のロコフォコ派(英語版)は、独占に反対し、兌換制度(英語版)と自由貿易を提案していた。ロコフォコ派の有力な代弁者としてウィリアム・レゲット(英語版)がいる。この頃には労働組合はほとんどなかったが、その一部は民主党と緩い関係を築いていた。 民主党はニューイングランドでは弱かったが、その他の地域では強く、ニューヨーク州、ペンシルベニア州、バージニア州(以上は、当時、他州に比べて遥かに人口が多かった)およびフロンティアで強かったおかげで、この時期のほとんどの国政選挙で勝利した。
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