1830年-1922年 初期の発展
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「イギリスの鉄道史」の記事における「1830年-1922年 初期の発展」の解説
当初は、小規模事業者による地方路線が散在していたが、その後、鉄道の建設が加速した。1840年代は特に鉄道が発展し、この10年間で、主要都市を結ぶ鉄道網が形成された。複数の路線が、同じ都市間に並行して作られることもあった。この名残は、都市間に重複する路線が相互に接続することなしに敷設されていたり、同じ都市に複数のターミナルがあるなど、現在の鉄道網にも見られる。 投機的な資金が集まり、一種のバブルともいえる熱狂的な投資がなされたことから、鉄道狂時代(Railway Mania)とも称される。そのピーク時である1846年には、新たな鉄道会社の設立に関する272もの法案が可決されたとされる。19世紀から20世紀初頭にかけて、これらは競合他社の買収などを通じて整理・淘汰がなされ、比較的大規模な少数の会社が残った。 この時期には、特に輸送の安全について、政府の関与も増大した。1840年の鉄道規制法に基づき鉄道調査院(HMRI: Her Majesty's Railway Inspectorate)が設立され、事故の原因を調査し、再発防止策を勧告した。1844年には国会に鉄道の国有化に関する法案が提出された。これは採択されなかったものの、客車の構造に関する最低基準の導入、3等車の連結の義務化につながった。1880年代後半から1890年代になると、東海岸の会社と西海岸の会社でロンドンからスコットランドへのスピード競走「北への競走」が華々しく繰り広げられ、この時の最高記録では平均時速が100 km/hを超えることになった。 第一次世界大戦中は、鉄道網は完全に政府の管理下に置かれた。乱立していた組織の合併による利点も生じ、戦後、鉄道の正式な国有化も検討された。これは、既に1830年、ウィリアム・グラッドストンにより提唱されていた。しかし政府と鉄道事業者の反対により実現せず、妥協案として、1921年鉄道法により、多数存立していた鉄道会社は、以下に述べる4大鉄道会社に集約された。
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