1665年当時のロンドン
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「ロンドンの大疫病」の記事における「1665年当時のロンドン」の解説
この時代の他の西欧の都市同様、17世紀のロンドンにおいてもペストは風土病として存在していた。 この疫病は周期的に大規模な流行を起こした。1603年の流行では3万人、1625年には3万5千人、1636年には1万人の死者が発生し、規模は小さいが同様の流行がしばしば起きた。 1664年の暮れ、明るい彗星が空に現れ、 ロンドンの住民たちは恐れ、彗星の出現が暗示する凶事とは何か疑問に思った。 当時のロンドンは448エーカーの市域と侵入者を防ぐ城壁からなる都市であった。ラドゲート、ニューゲート、アルダーズゲート、クリプルゲート、ムーアゲート、ビショップスゲートに城門があり、ロンドン南部にあるテムズ川にはロンドン橋が掛かっていた。 ロンドンでも貧しい住民が住む地域の過密な長屋の中では、衛生の維持は不可能であった。 下水設備はまったくなく、曲がりくねった街路の中央に設けられた開渠に流されていた。道路に敷かれた丸石は馬車から出る泥や糞で滑りやすく、夏には蝿がうなり、冬には排水溝を満たした。 ロンドン市は「掃除人」を雇い、特にひどくたまった汚物を城壁外へ運びだし、汚物はそこに溜り、腐敗していった。ひどい悪臭のため、街路を歩く人はハンカチや花を鼻孔に押し付けていた。 石炭等のロンドン市の必需品の一部ははしけで運ばれていたが、大半は陸路で輸送されていた。陸路は荷車や幌馬車、騎馬や歩行者で込み合っており、城門の受け入れ能力がロンドン市の成長のボトルネックとなっていた。19のアーチからなるロンドン橋はさらに混雑していた。暮らしに余裕がある人たちは、汚物で汚れないように、目的地まではハックニーキャリッジと呼ばれる辻馬車や、椅子かごを使った。徒歩の貧民は車が巻き上げる泥や、屋根から捨てられる泥や水で汚れる恐れがあった。石けん工場や醸造場、製鉄所、石炭を使う1万5千の家から生じる息を詰まらせる黒煙の危険もあった。 ロンドンの城壁の外では、すでに過密な市内で群れをなす職人や商人の居住区が広がっていた。木造の掘っ立て小屋が広がるスラム街で、そこには衛生はまったくなかった。政府はスラム街の拡大を規制しようとしたが失敗し、およそ25万人が住んでいた。 共和政期に逃亡した王党派の立派な住宅を引き取って使っている移民もいたが、それぞれの部屋は別の家族が住んでおり、長屋のようになってしまった。そのような居住区はすぐに取り壊され、ネズミで汚染されたスラム街となった。 ロンドン市の行政府はロンドン市長、参事会員、市会議員によって組織されていたが、一般にロンドン在住とみなされる領域すべてが法的にロンドン市とされるわけではなかった。ロンドン市内と市外どちらにもさまざまな面積の歴史的に自治が認められている自由区域という行政区画があった。その多くは教会と関連していたが、ヘンリー8世による修道院の解散を経て廃止された区に関しては、土地所有権と同じように歴史的権利も移譲された。 城壁に囲まれたロンドン市と、ロンドン市の統治下にある市外を囲む自由区域は、「シティ・アンド・リバティーズ」と呼ばれていたが、さらに様々な行政府によって統治される郊外に取り囲まれていた。ウェストミンスターは独自の自由区域を持つ独立した町であったが、都市化に伴いロンドン市に組み込まれた。ロンドン塔も独立した自由区域であり、その他の自由区域も同様である。テムズ川の北の地域で自由区域に属さないものはミドルセックス州政府の統治を受けており、テムズ川南部の地域ではサリー州政府の統治下にあった。 この時代、腺ペストは現代よりずっと恐れられていたが、その原因はわかっていなかった。大地から発散されている「悪疫性放散物」や、異常な気候、家畜の病気や、奇妙な動作、モグラ、カエル、ネズミ、ハエの数の増加によると軽信する人々もいた。 アレクサドル・イェルシンがペスト菌を同定し、この細菌の感染によって生じ、ネズミノミに媒介されることが知られるようになったのは1894年のことだった。 ロンドンの大疫病は長年ペスト菌による腺ペストだと信じられており、2016年のDNA分析によってそのことが証明された。
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