絣
絣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/13 09:52 UTC 版)
絣(かすり)は、織物の技法の一つで、絣糸(かすりいと)、すなわち前もって染め分けた糸を経糸(たていと)、緯糸(よこいと、ぬきいと)、またはその両方に使用して織り上げ、文様を表すものである。「絣」は日本および琉球の織物を指す用語であるが、これに類した織技は東南アジアをはじめ世界各地にみられ、マレー語/インドネシア語で「縛る、括る」を意味する「イカット」(ikat)という語で呼ばれている[1]。
注釈
- ^ 後染めで絣のような文様を表したものを染絣と称する場合もある。
- ^ 経糸とは長さを揃えて織機に張り渡す糸のことであり、緯糸とは経糸を上げ下げしてその隙間にくぐらせる糸のこと。
- ^ 「綾」には複数の意味があるが、ここでは織物の三原組織としての綾織のこと。織物の三原組織とは平織、綾織、繻子織を指す。平織は経糸と緯糸が1本ずつ規則的に浮沈を繰り返す、もっとも基本的な織りの組織。綾織は糸の浮き沈みの間隔が長くなり、経糸と緯糸の交点が斜め方向に現れるもので、斜文織と同義。繻子織は綾織よりさらに浮沈の間隔が長くなったもので、経緯糸の交点はまばらに配置され、繊維の光沢が強く現れる。
- ^ 久留米絣と伊予絣の開発時期については諸説ある。
出典
絣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/01 21:03 UTC 版)
織物の一種だが、錦、綾などと異なり、あらかじめ斑に染めた糸を経糸、緯糸、またはその両方に用いて製織し、文様を表すもの。この種の染織技法はアジア各地、南米など世界各地に分布し、マレー語由来の「イカット」という呼称がこの種の織物を指す国際的に共通の用語になっている。日本では飛鳥時代の太子間道と呼ばれる裂は経絣の技法によるものだが、その後絣の技法は長らく絶えていた。江戸時代の絣の産地としては、久留米、伊予、備後、広瀬、倉吉、大和、近江、越後などが著名である。各地で多く生産されているのは木綿の紺絣であるが、上布(じょうふ、良質の麻織物)製のものもある。
※この「絣」の解説は、「日本の染織工芸」の解説の一部です。
「絣」を含む「日本の染織工芸」の記事については、「日本の染織工芸」の概要を参照ください。
絣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/21 07:54 UTC 版)
絣はインドなどの南方で生まれ、海路を経てタイ王国、インドネシア、琉球(沖縄)に伝わり、更に本州に伝わったようである。日本では上代から絣の遺品があるが、絣が広く織られるようになったのは江戸時代の末頃からで、明治にかけて急激に各地で広まった。麻糸などであらかじめ括り、防染して、斑に染め分けた糸で文様を織り出した織物を「絣」と呼ぶが、この技法は時代とともにさらに複雑なものが考案されていった。倉吉絣の特徴は「絵絣」にあった。絵絣はその名のごとく絵画的な文様を織物で表した絣である。 江戸末期に始まった倉吉絣は、明治になって盛んに織られるようになり、その当時倉吉地方の各家庭では自宅で使う木綿の着尺や布団生地はどれも、家の女手で織られており、呉服屋で買うというようなことはなかった。倉吉の娘は皆、機(はた)を習った。自分で糸を紡ぎその糸を紺屋へ持っていって染めてもらい、自分で織った。織物ができることによって一人前の娘として認められたのである。機織りのできない者は結婚もできなかったが、上手な者はそれが嫁入り道具とも見られ歓迎されたのである。 資料として、自分の織る織物の参考にしたり、新しく織った柄を集めて帳面に貼った「縞帳」が残っているが、倉吉の女は器用な者が多く、縞が織れるのはあたりまえで、器用な娘は平織りの絣とは違った織物「そしき織」や「風通織」、絵絣を織った。 絵絣は字のごとく絵のような絣で、上手なものはより細い糸を使いまさに手で描いたような柄が織物で表されていた。段々複雑なものが増えるに従い、「縞帳」は縞より絵絣が目立つようになっていき、松、竹、梅、鶴、亀、大黒や、様々な自然物、器具、字などを柄に取り入れたものが残っている。
※この「絣」の解説は、「倉吉絣」の解説の一部です。
「絣」を含む「倉吉絣」の記事については、「倉吉絣」の概要を参照ください。
絣
「 絣」の例文・使い方・用例・文例
*絣と同じ種類の言葉
- >> 「*絣」を含む用語の索引
- *絣のページへのリンク