絣の流通
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/21 07:54 UTC 版)
倉吉はかつて小さな城下町であった。明治初年頃稲を扱く稲扱千刃(いなこきせんば)が倉吉で開発され、西日本を中心に全国に広まっていった。刀や鋤、鍬を作っていた鍛冶町には西日本の農家の需要を満たすため鍛冶屋が多数あり、各地に販売の行商に出かけるものが多くいた。 倉吉の絵絣は、稲扱千刃の行商人によって各地で売られ、全国へ広まっていったのである。その柄の巧みさで各地でもてはやされ、より複雑なものほど高価に売れた。そして更に複雑な織物をめざすようになっていく。これが倉吉の女達の貴重な内職収入源ともなった。 また、この高度な倉吉絣は技術までも流通して、美作(岡山県津山市周辺)では明治初期に倉吉絣の技術が持ち込まれ、絣が織られるようになり、作州絣とよばれた。
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