黒髭として
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1717年11月28日、ティーチが指揮する2隻の船は、セントビンセント島沖でフランスの大型商船を攻撃した。彼らの舷側砲による砲撃は舷墻を超え、何人かの船員が死に、船長は降伏した。拿捕された船はサン・マロに所属するフランスの大型奴隷船(Guineamen)ラ・コンコルド号で、奴隷を輸送中であった。ティーチたちは、セントビンセント・グレナディーンに沿って南方のベキア島に向かい、そこでラ・コンコルド号の船員と積荷(奴隷)を下船させた後、船を自分たちの使用目的に合わせ改造した。ティーチは、ラ・コンコルド号の船員たちに所有する2隻のスループ船の内、小さい方をMauvaise Rencontre号(悪い意味を持つ)と改名して与え、その船はマルティニーク島に向かった。奴隷たちに関しては、ティーチが何人かを仲間に迎え入れたかもしれないが、残りは島に取り残され、後に戻ってきたMauvaise Rencontre号の船員たちに回収された。 ティーチはすぐにラ・コンコルド号をアン女王の復讐号に改名し、40門の大砲を配備させた。この時までにティーチは部下のルテナント・リチャーズに、ボネットのリベンジ号の指揮権を与えている。11月下旬、セントビンセント島近くでGreat Allen号を襲撃し、長い交戦の末に、この大型武装商船を降伏させた。ティーチは岸に着けるよう命令すると船員たちを下船させ、積荷を奪ってから火をつけて沈めた。この事件はボストン・ニュースレターで報じられ、ティーチは「32門のフランス船、10門のブリガンティン、12門のスループ船」を指揮していたという。ティーチがいつ10門のブリガンティンを手に入れたのかは不明だが、この時までに少なくとも約150人の手下と3隻の船を率いていたものと思われる。 12月5日、ティーチは、アンギラ島近くのカニ島の浜に停泊中であったスループ船の商船マーガレット号を拿捕した。船長のボストックと船員たちは約8時間に渡ってティーチの捕虜として、自分たちの船が蹂躙されるのを見ることを強いられた。アン女王の復讐号の船内に勾留されたボストックだったが、その後、マーガレット号に無傷で解放され、他の船員らと共に帰ることを許された。彼がセントクリストファー島の駐屯基地に戻って、このことをウォルター・ハミルトン総督に報告すると、総督は宣誓供述書(Affidavit)にしたためるよう要請した。ボストックの口述書では、ティーチが指揮する2隻の船舶について詳しく書かれている。それによれば1隻のスループ船と、フランスの大型奴隷船からなり、オランダ製の36門の大砲と300人の手下たちを擁していたという。その大型船にはGreat Allen号の艦長から奪ったと思われる高価な金粉や銀のメッキ品、また「とても精巧なカップ(a very fine cup)」があった。ティーチの手下は、ボストックに他の船舶をいくつか襲ったことや、イスパニョーラ島に向かい、駐屯軍に支払う資金を運んだスペイン艦隊を待ち伏せする計画を立てていることなどを明かしてきた。ボストックはまたティーチが現地の船の動きについて質問してきただけではなく、近く海賊に対する王の恩赦が行われるかもしれないと伝えた時に特に驚いた様子は見せなかったとも述べている。 So our Heroe, Captain Teach, assumed the Cognomen of Black-beard, from that large Quantity of Hair, which, like a frightful Meteor, covered his whole Face, and frightened America more than any Comet that has appeared there a long Time. This Beard was black, which he suffered to grow of an extravagant Length; as to Breadth, it came up to his Eyes; he was accustomed to twist it with Ribbons, in small Tails, after the Manner of our Ramilies Wiggs, and turn them about his Ears “ ” チャールズ・ジョンソン『海賊史』 ボストックによれば、ティーチは「背の高い引き締まった体格の男で、とても豊かな黒いアゴ髭をしていた」と説明している。これがティーチの容姿に関する最初の記録であり、彼の異名「黒髭」の由来である。後の記録では、彼は豊かな黒髭をおさげ状に編み込み、時々、色のついた小さなリボンを結びつけていたという。『海賊史』では「地獄から来たような凶暴さをより恐ろしく見せるように、常人では思いつかないようなアイデアに基づいた格好をしていた」と説明されている。この記述がまさしく事実か誇張かは不明だが、ティーチは外見の価値を理解していたように思われる。ただ怒鳴り散らすよりも、相手の心に恐怖を抱かせることを重視していた。ティーチは背が高く、肩幅が広かった。膝丈のブーツに暗い色の服を着込み、つば広帽に、時に鮮やかな色のシルクやビロードのロングコートを着ていた。『海賊史』ではまた、戦闘中のティーチは「肩がけにした吊り帯に3対(6丁)のピストルがセットされた弾帯のようなホルスターがぶら下がっており、帽子の下には点火した導火線(スローマッチ)をつけていた」という。後者は明らかに恐ろしい外見を相手に誇示するのが目的だった。コンスタムによれば、ティーチはその悪名高さに反して、捕虜を殺害したり、暴力をくわえたことを証明する記録はないという。ただ、別名を使っていた可能性はあり、11月30日にモンセラーテ・マーチャント号は、Kentish船長とエドワード船長が指揮する2隻のスループ船に遭遇したというが、このエドワードとはスティード・ボネットの別名である。
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