高校1年
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2016年4月、淑徳巣鴨高校に入学するも、初登校する間もなくリオ五輪代表選考会を兼ねた第92回日本選手権に挑むことになる。池江は4種目にエントリーし、リレーを含めた7種目での代表入りを狙った。大会を通じて、高校新7回、日本新1回、WJ新1回の活躍で、計4種目の代表権を獲得。さらにその後の5月から6月にかけて参加した大会での活躍と将来性が認められ、日本競泳史上初めて7種目での五輪派遣が決定した(→リオ五輪代表選考)。 5月のジャパンオープン、100m自由形でオーストラリアの強豪キャンベル姉妹と対決。前年の世界選手権銅メダリストで後に世界記録を樹立する姉ケイト・キャンベルには1秒半以上遅れたものの、世界選手権チャンピオンである妹のブロンテ・キャンベル(英語版)に競り勝ち53秒98の高校記録を樹立、キャンベル姉妹がオープン参加だったため優勝者となった。また50mバタフライは世界ジュニア新記録となる26秒05で、100mバタフライは57秒57でそれぞれ優勝を飾った。200m自由形は五十嵐千尋に次ぐ2位だった。 6月、欧州ツアー帰国からわずか3日後の東京都高校選手権、疲労と時差ボケが残る中、全日本選手権で内田美希に0秒11更新された100m自由形の日本記録を再び0秒19更新する53秒69の日本新記録で優勝。代表選考に直接は関係ないものの日本選手権では届かなかった五輪派遣標準記録も0秒12上回った。 7月、五輪前最後の公式戦として三重県選手権にオープン参加で出場すると、50mバタフライで加藤ゆかの持つ従来の日本記録を0秒45と大幅に更新、25秒50の日本新記録を樹立した。これにより4種目の日本記録保持者となった。 8月のインターハイは、池江、長谷川涼香、今井月、持田早智ら高校生五輪代表の「リオ五輪直後の大会」という事もあり立ち見が出るほど注目が集まった。池江はブラジルから帰国後、羽田空港から直接開催地の広島に向かうという強行軍の中、50m自由形と100m自由形で大会新を樹立し優勝、日本記録保持者の貫禄を見せつけた。大会3日目の400mメドレーリレーは、池江、長谷川の代表2人を擁する淑徳巣鴨高校と、今井を擁する豊川高校の一騎討ちとなり、2泳の今井だけで6秒近いリードを作った豊川が、淑徳巣鴨の3泳長谷川とアンカー池江の猛追を振り切り優勝、淑徳巣鴨は1秒差の準優勝となった。最終日、3泳を務めた800mリレー決勝ではトップと6秒差の6位でバトンを受け取ると、決勝出場者中ただひとり2分を切る1分57秒台の泳ぎで5人をごぼう抜きにし、さらに1秒以上のリードを作った状態でアンカーの長谷川に繋いだ。チームは大会記録を6秒以上更新して優勝を飾った。 9月、岩手県で開催された国体に出場。前月だけで計30レースという超過密日程の中、「シーズン最後の大会で日本新を」と挑んだ50m自由形決勝において自らの日本記録を0秒07更新した。 10月、東京で行われたワールドカップ2016東京大会(短水路)の100m個人メドレーにおいて、渡部香生子が保持していた従来の記録を1秒以上縮める58秒24の短水路日本新記録を樹立し、5種目の日本記録保持者となった。 11月、東京で開催された第10回アジア水泳選手権の100m自由形決勝で自身の日本記録を0秒01更新する53秒68をマークした。同大会では50m自由形、50m、100mバタフライ、及び400mメドレーリレーで優勝し、特に第3泳を務めたメドレーリレーでは引き継ぎながら100mバタフライの日本記録を0秒66上回るタイムで泳ぎ、日本の優勝に大きく貢献した。 12月、カナダ・ウィンザーで行われた第13回世界短水路選手権に出場。50m及び100mバタフライで銅メダルを獲得すると同時に、加藤ゆかが保持していた両種目の日本記録も更新して7種目の日本記録保持者となった。 2017年1月、東京都水泳選手権の200m自由形決勝において五十嵐千尋の日本記録を0秒85更新し、8種目の日本記録保持者となった。 2月18日、コナミ・オープンの50m自由形決勝において、苦手としていたノーブレスを初めて取り入れ、自身の日本記録を0秒19更新する24秒48で優勝した。 3月、フランスに遠征し、FFNゴールデンツアーに参戦。200m自由形ではカティンカ・ホッスーを終始リードして勝利するなど、出場した5種目中4種目で優勝を果たした。また50mバタフライ決勝では自由形に続いて自身初めてノーブレス泳法を達成した。 3月29日、高校1年最後の競技会となるJOC春季大会に出場。内田美希が保持していた短水路50m自由形の日本記録を0秒17更新する24秒05で泳ぎ、9種目の日本記録保持者となった。
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高校1年
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柳川高校では全日本女子代表チームのコーチも務めていた監督の河野満男の指導の下で、さらに力を付けていった。父親に監視されない環境だったこともあり、のびのびとした気持ちになりながらも、真剣に柔道に向き合えるようになっていったという。入学後すぐに出場した全日本選手権では、準々決勝で大阪府警の佐藤昭子に判定で敗れるもののベスト8に入る健闘を見せるが、体重別では初戦で山形県教育委員会の坂上洋子に判定で敗れた。7月の世界ジュニア代表選考会では、高校チャンピオンである東海大第一高校3年の石垣晶代に一本勝ちしたのをはじめ、トーナメント戦を全勝して代表に選出された。さらに金鷲旗ではチームメイトで3年の佐野奈津子、2年の佐藤和恵とともに活躍して柳川高校の3連覇に大いに貢献した。続くインターハイでも大活躍して柳川の初優勝の原動力となった。 8月のポーランドジュニア国際では決勝で石垣を破ったのをはじめ、オール一本勝ちで優勝した。10月にはブエノスアイレスで開催された世界ジュニアに出場し、準決勝までオール一本勝ちで勝ち進むが、決勝では中国の袁華にパワーでおされて払腰で有効を取られて2位に終わった。しかし2週間後の強化選手選考会では、学生チャンピオンである湊川女子短大2年の浅田ゆかりを内股で一本勝ち、坂上と並んで国内のこの階級を代表する選手であるコマツの鈴木香を判定で破って決勝に進出して、決勝でも国士舘大学3年の五十嵐準子から背負落で一本勝ちして優勝を果たして、福岡国際の代表に選出された。初出場となった福岡国際の72kg超級では初戦で韓国の文祉允に判定で敗れるが、無差別では準決勝で中国の喬艶敏に判定で敗れたものの、3位決定戦で五十嵐に袈裟固で一本勝ちして3位は確保した。そしてそのすぐ後には中国遠征に参加した。 1993年1月のミキハウス大阪国際女子柔道クラブカップトーナメントでは柳川高校の一員として出場するが、決勝でミキハウスの田辺陽子に崩袈裟固で一本負けして、チームも2位となった。続く広島国際女子柔道選手権大会にも出場するが、準決勝で韓国の孫賢美に敗れて3位に終わった。2月にはフランス国際に出場するが、準決勝でオランダのモニク・ファンデリーに判定で敗れるものの、3位決定戦で鈴木に優勢勝ちして3位となった。3月には高校選手権に出場して、準決勝で阿蘇高校2年の二宮美穂を有効、決勝で夙川学院高校2年の山下まゆみを効果で下して優勝を果たした。
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高校1年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 13:55 UTC 版)
2005年には渋谷教育学園渋谷高等学校へ進むと、自宅からの通いとなった。また、三井住友海上の柔道部でも練習に取り組むこととなった。7月の金鷲旗では48kg級の選手ながらチームの決勝進出に貢献したが、埼玉栄高校戦では引き分けるとチームも敗れて2位にとどまった。8月のインターハイ個人戦では決勝で夙川学院高校3年の小林咲里亜に判定で敗れた。団体戦には出場しなかったがチームは3位に入った。9月の全日本ジュニアでは決勝で三井住友海上の山岸絵美に効果で敗れて2位だった。11月のアジアジュニアでは2年ぶり2度目の優勝を飾ると、その僅か5日後に出場した講道館杯では決勝まで進むと、トヨタ自動車の谷亮子に次ぐ実力者だったミキハウスの北田佳世をGSに入ってから2分過ぎに大内刈の効果で破り、高校1年生にしてシニアの全国大会を制した。さらに12月には福岡国際女子柔道の2回戦で世界チャンピオンであるキューバのヤネト・ベルモイをGSに入ってから指導1、決勝では北田を袖釣込腰の技ありでそれぞれ破って、今大会15歳で優勝した谷亮子に次ぐ16歳での覇者となる快挙を達成。一躍「ポスト谷」の有力候補として注目を浴びた。2006年2月にはフランス国際に派遣されると、準決勝で地元フランスのフレデリク・ジョシネに効果で敗れるも、3位決定戦でベルモイを技ありで破って3位となった。3月の全国高校選手権団体戦では決勝の三田松聖高校戦を始めとして初戦から全勝するものの、チームは敗れて2位にとどまった。
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高校1年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 06:24 UTC 版)
富士学苑高校に進むと、1年の4月には全日本カデの決勝で奈良育英高校2年の村井惟衣に小外刈の有効で敗れて2位だった。 7月の金鷲旗では4回戦で横須賀学院高校と対戦すると、2階級上である70kg級の大川優希に敗れた。 8月のインターハイ個人戦では準々決勝で帝京高校3年の西尾直子に大外刈で敗れて5位だった。団体戦では3回戦で大成高校と対戦すると、3階級上である78kg級の鈴木伊織に指導2で敗れた。 10月の国体少年女子の部では準々決勝で大阪府チームと対戦すると、63kg級の米澤夏帆と引き分けるが、3年の渡辺聖未が敗れてチームは5位にとどまった。 12月のアジアカデでは初戦の指導3勝ち以外は全て得意の寝技で一本勝ちして優勝を飾った。 2015年3月の全国高校選手権では決勝まで進むも、藤枝順心高校2年の谷川美歩に開始早々の横四方固で敗れて2位だった。団体戦では2回戦で北海高校と対戦すると、2階級上である70kg級の杉本梨々花を指導2で破るがチームは敗れた。
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高校1年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 09:42 UTC 版)
2016年には夙川学院高校に進学すると、1年の時には4月の全日本カデ決勝で大成高校1年の河端風を指導2で破って優勝を飾った。 8月のインターハイでは初戦で広島皆実高校3年の島谷真央と対戦すると、河津掛を仕掛けたとみなされて反則負けを喫した。この敗戦には非常にショックを受けて、今までやってきたことが全て間違いだったような気分にまで陥ったものの、兄の一二三に叱咤激励されたことで立ち直ることができた。これを契機に心の持ちようが劇的に変化すると、驕り高ぶった気持ちも消えて、県予選レベルから大きな大会に至るまでぶれない気持ちを持続させることができるようになったという。 9月の全日本ジュニアでは準決勝で大成高校3年の武田亮子に大外返で敗れて3位だった。 11月の講道館杯では準決勝で了徳寺学園職員の角田夏実に腕挫十字固で敗れるも、高校1年ながら3位入賞を果たした。 12月には初のシニアの国際大会であるグランドスラム・東京に出場すると、史上最年少の16歳141日で決勝まで進むが、角田に腕挫十字固で敗れて優勝はならなかった。なお、兄の一二三は優勝したことにより、兄妹でのメダル獲得となった。 2017年2月のグランプリ・デュッセルドルフでは準々決勝で了徳寺学園職員の志々目愛を内股で破ったのをはじめ全試合に一本勝ちして決勝まで進むと、フランスのアマンディーヌ・ブシャールを内股の技ありで破って優勝を飾り、IJFワールド柔道ツアーを史上最年少の16歳225日で制することとなった。この際に全日本女子代表監督の増地克之は次のように語った。「プレッシャーがかかる場面で力を発揮できる。スター性を感じた」「課題はありますけど何か周りを引き付けるものを持っている。期待も込めて谷亮子選手のようになってもらいたい」。 3月の全国高校選手権個人戦では準々決勝までの3試合を寝技で一本勝ちすると、準決勝は指導2による勝利だったものの、決勝では新田高校2年の児玉風香を開始早々の袖釣込腰で破って優勝した。翌日の団体戦では決勝の大成高校戦で反則勝ちを収めるなど全試合に勝利してチームを優勝に導いて最優秀選手に選出された。これにより個人戦との2冠を達成した。寝技師で有名な舟久保遥香のいる富士学苑高校で寝技修業を積んだ成果も今大会で現れた。
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高校1年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 07:32 UTC 版)
2016年に南筑高校へ進学すると、1年の時には4月の全日本カデで2連覇を達成した。7月の金鷲旗ではチームの準決勝進出の原動力となるも、敬愛高校の新森涼に指導3で敗れて3位だった。9月の全日本ジュニアでは決勝まで進むと、今大会やインターハイの福岡予選で敗れていた高校チャンピオンである敬愛高校3年の児玉ひかるを指導2で破って高校1年生ながら優勝を飾った。11月の講道館杯では高校1年ながら決勝まで進むが、東海大学2年の朝比奈沙羅に有効で敗れて2位だった。12月のグランドスラム・東京では今大会の52kg級で2位になった親友で夙川学院高校1年の阿部詩の16歳141日に次ぐ16歳148日で決勝まで進んで朝比奈と対戦するが、指導1を先取するも追いつかれると、GSに入ってから指導2を取られて優勝はならなかった。2017年2月のグランプリ・デュッセルドルフでは準々決勝でウクライナのイリーナ・キンゼルスカに崩袈裟固で敗れるも、その後敗者復活戦を勝ち上がって3位になった。3月の全日本選手権九州予選では準決勝で児玉に敗れて本戦への出場を果たせなかった。続く全国高校選手権個人戦では決勝で大成高校2年の和田梨乃子を合技で破るなど、準決勝の指導2勝ち以外は全て一本勝ちして優勝を飾った。団体戦では準決勝の大成高校戦で勝利するもチームは敗れて3位だった。
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高校1年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 09:42 UTC 版)
小学生の時から指導を受けていた神港学園神港高校へ進学すると、66kg級に階級をあげた。 入学当初は全国レベルの強豪校と言えない神港高校へ行ったことで潰れるとの風評も立てられた。しかし、全ての練習が阿部中心に組まれる阿部シフトの下で順調に力を付けて行くことになった。 1年の時には全日本カデで優勝を果たして、17歳以下の世界一を決める世界カデに出場するが、決勝でグルジアのコバ・ムチェドリシビリに技ありで敗れた。 全国高校選手権には66kg級が設置されていないことから1階級上の73kg級に出場すると、決勝でバルセロナオリンピック71kg級金メダリスト古賀稔彦の長男である大成高校1年の古賀颯人に有効を先取されるも、その直後に小外刈で逆転勝ちして優勝を飾った。
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