頂点と崩壊、1890年-1896年
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「第三政党制 (アメリカ合衆国)」の記事における「頂点と崩壊、1890年-1896年」の解説
1880年代後半に新たな問題が持ち上がった。1888年の大統領選挙では、グロバー・クリーブランドとブルボン民主党が「歳入のためのみ」という低い関税をスローガンにして訴えたが、1890年の共和党多数の議会は高率関税と高支出を議会で通した。州のレベルでは道徳的敬虔主義者が禁酒法を強力に推進し、ある州ではドイツ系移民のための外国語学校の排除に動いた。1890年、ウィスコンシン州のベネット法では、民族文化の闘争を生んで民主党が勝利した。南北戦争後に入ってきた大量の移民は民族と宗教で党派が別れた。多くのドイツ系移民が民主党支持に動いて、民主党は1892年の選挙で多数派となることができた。ドイツ系移民の票が浮き沈みしたことや、突然人民党が興隆したことでもわかるように、党に対する忠誠心は弱くなり始めていた。軍隊式の選挙運動は、浮動票に重点を移した「教育の選挙運動」で補われる必要があった。 クリーブランド大統領の2期目(1893年-1897年)は大きな不況である1893年恐慌で破滅した。これは南部と西部で緩やかな連衡を図った人民党 (Populists)の訴えも効果を無くした。1894年中間選挙における共和党の大勝で、メイソン=ディクソン線より北では民主党勢力がほとんど消えた。1896年大統領選挙では、ウィリアム・ジェニングス・ブライアンと急進的な銀本位制推進者が民主党を支配し、自党のクリーブランド大統領を非難し、ジェファーソンの農本主義に戻ることを要求した。ブライアンはその「金の十字架」演説で、大企業や悪徳銀行家および金本位制の餌食になっている労働者や農夫について語った。ブライアンは中西部中で1日5回なし35回の演説をこなし、世論調査では、その運動が重要な中西部におけるリードを固めていることを示していた。共和党候補者のウィリアム・マッキンリーとその参謀マーク・ハンナはその事態を把握し、その反撃は新しい広告技術を贅沢に使って教育の選挙運動を行うことだった。マッキンリーは、ブライアンの金銀複本位制(金と銀の両方を本位貨幣とする)が経済をぶち壊し、全ての人民を貧乏にすることで平等を達成するものだと警告した。マッキンリーは健全な資金と事業の信用、および製造業の豊富な高給取り職業に基づく強い経済成長を通じた繁栄を約束した。農夫は農作物を豊かな国内市場に売ることで恩恵を受けるものとされた。人種、民族および宗教のどの集団も繁栄することになり、政府は1つの集団が他方を攻撃するために使われることは無いものとされた。特にマッキンリーは、一方でブライアンのインフレで、他方では禁酒法で警告されていたドイツ系アメリカ人を安心させた。 結果としてマッキンリーが大勝したことは、都市と農場、北東部と中西部、事業家と工場労働者を組み合わせることになった。マッキンリーが人口5万人以上の大都市ほとんど全てを制したのに対し、ブライアンは南部と山岳部の田園部を制しただけだった。マッキンリーの勝利は1900年の地滑り的勝利で再確認され、20世紀アメリカ合衆国の中心イデオロギーの1つ、すなわち多元主義となった。
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