非公開の続く一次史料と関係者間のトラブル
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「福井静夫」の記事における「非公開の続く一次史料と関係者間のトラブル」の解説
上記のように、福井は膨大な旧海軍関連の資料を蒐集している事で有名であった。1958年(昭和33年)の段階で既に1万枚の写真を保有していると書いており、2005年(平成17年)に相次いで出版された『呉市海事歴史科学館図録 福井静夫コレクション傑作選』には2万枚と書かれている。しかし、福井(および『世界の艦船』常連執筆者であった堀元美)は具体的な文書や写真を提示せず、回顧録的な記事の発表を続けたため、一部読者や研究家の間で旧海軍の技術関係者に対する不満が高まり、1970年代半ばから数年間、主に雑誌『世界の艦船』の読者投稿欄(読者交歓室)を舞台に論争が発生した。 主な批判者は田村俊夫、当時から艦船図面の蒐集と配布を行なっていた遠藤昭などである。遠藤と福井は取材を通じて複数回顔を合わせており互いに面識があり、非公開への批判に留まらず、旧海軍の造船士官の殆どが師事していた平賀譲への過剰な賛美を批判し、平賀と対立していた藤本喜久雄を再評価する視点からも造船関係者を批判した。対立は田村が大淀の右舷正横写真をアメリカの研究家ロナルド・ヒーフナーからナショナル・アーカイブスに保管されている旨を教示され、これを『世界の艦船』1979年(昭和54年)8月号で公開した頃より表面化した。遠藤も『丸』1979年(昭和54年)11月号にて「大和創世記」を発表、内容は技術者同士の確執を批判的に採り上げたものであった。状況は悪化し続け、1980年(昭和55年)7月号から1981年(昭和56年)6月号まで続いた「遠藤昭投書事件」で頂点に達する。遠藤の遠慮仮借ない批判に対し、『世界の艦船』での論争は福井をはじめとする旧海軍関係者による反論や「阿呆」などと言った罵倒、編集部からの参戦など、売り言葉に買い言葉という状況が雑誌上で毎月のように続いた。 この結果遠藤は『世界の艦船』への出入禁止となり、一時期執筆活動が停滞する。旧海軍の造船官の中にも堀元美のように海人社と袂を分かった者がいた。福井も『世界の艦船』に記事を発表することは無くなる。この状況下、遠藤は「史料を公開しないのは平賀派の元造船士官達による証拠隠滅の陰謀」という考えを強めていく。福井の死後の1994年(平成6年)に出版した『駆逐艦戦隊』(朝日ソノラマ)では、遠藤はある駆逐艦の公式図面を戦後30年以上秘匿していた造船官(名前は明かされていない)に対し「藤本造船官の偉大な功績を歴史上から抹殺するための故意なのか、軍艦研究者とは表面的な顔であり、実際は単なる軍艦のコレクションマニアに過ぎなかったのではないか、などと噂されている。」と名指しではないものの明らかに福井を標的にした批判を述べている。そして1996年(平成8年)には、遠藤は雑誌(殆ど同人誌に近いが)『戦前船舶』を立ち上げ、作家や比較的若い若い研究家が多く集まっていた学習研究社も活動の舞台として批判を継続した。 なお、福井は1958年(昭和33年)『日本海軍艦艇総集』企画時に「分冊で何十冊、あるいは何百冊になる」と書き、個別の写真について「誰でもが容易に入手できる手段を講じる」と公言し、写真を所蔵している人々に寄贈を要請していた。しかし、この企画は今のところ果たされていない。収蔵史料が国立国会図書館や防衛省防衛研究所といった、一般人から見てしかるべき研究機関と思われる組織に寄贈される計画は生前には果たされず、上記のように死後、呉市が運営する呉市海事歴史科学館に譲渡する事に変更され、その開館も死後10年以上経過した2005年(平成17年)4月23日のことであった。
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