震災復興52小公園
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 23:02 UTC 版)
当初は、焼失区域のすべての小学校区に公園を隣接させようとしたが、半数に届かない52箇所に止まった。小公園の建設・設計理念は以下のようなものであった。 小公園の配置は、児童数・校庭の広狭・既設公園の配置などを勘案し、都市計画的に決定される。 耐震強度を高めた小学校に隣接し、教材園及び運動場補助等の目的を有するとともに、地域の防災拠点とする。 広場を中心に敷地の40%を植栽地とし、道路に沿う外周部分には低い鉄柵を施し、容易に出入り可能なものとする。 植栽には防火・防音・防塵効果に優れた常緑樹を採用し、学校教材のために多種類の樹木と潅木を使用する。 震災復興の名の下に公園を近代文化の普及・啓発のための展示場として演出する。 震災後、欧米を視察した井下清は、近代的・合理的な態度で設計に臨み、小公園のあるべき姿を新しい様式として示した。しかし戦後、小公園の管理が東京都から特別区へ移管されると、世相の変化とともに相次いで改修が行われた。多くの小公園が、プレイスカルプチャーが所狭しと並ぶ児童公園という位置づけとなり、いつの間にか小学校とも隔離された存在となってしまった。教育と公園は行政の中で、それぞれ独立した存在となり、学校公園の考え方は忘れ去られてしまっている。52小公園の現存状況については、かなりの数の公園が消滅や縮小の憂き目にあっており、名称のみで完成当時の姿を完全に残すものはひとつもない。京橋公園(千代田区、昭和4年開園)のコンクリート製滑り台や元加賀公園(江東区、昭和2年開園)の壁泉付露床など一部の造形物が残るのみである。 文京区本郷にある元町公園(昭和5年開園)は、昭和57年(1982年)に伊藤邦衛によって原型に忠実な改修が行われ、大塚公園 (文京区)とともに当時の設計思想を現在に伝える小公園となっている。復元されたモダンなデザインの擁壁や壁泉、太い円柱が印象的なパーゴラ(つる棚)、左右対称の2連式滑り台などは、いずれも小公園の特徴的な様式である。隣接する元町小学校は、平成10年(1998年)に本郷小学校との統合化により廃校となっていたが、 復興事業の一環として震災復興公園の中でも重要視され、 要望書が相次ぎ、その結果日本の歴史公園100選に選定され、 都市計画審議会を経て、 慎重な手続きがとられ、 2015年、元町公園の保全及び旧元町小学校の有効活用検討会議を設置。 文京区では、旧元町小学校及び元町公園について、歴史性、防災性、街並みや景観及び公共性等に配慮し、保全と有効活用を図ることとし、「旧元町小学校の保全・有効活用整備方針(平成30年8月)」に基づき、旧元町小学校の整備や元町公園との一体的な活用について、事業者を公募している。
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