除反応かレジリエンスの強化か
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 00:07 UTC 版)
「解離性同一性障害」の記事における「除反応かレジリエンスの強化か」の解説
1989年当時、パトナムは治療の焦点を心的外傷からの回復と治療的除反応 (Abreaktion)とおき、「苦しむ患者をこれほど劇的に救出する精神医学的介入方法は他にはそうざらにない」とまで言っていた。除反応はカタルシス療法とも呼び、フロイト(Freud,S.) の初期の共同研究者であったJ.ブロイアー (Breuer,J.) の患者アンナ・O自身が発明し、「お話し療法 (独 redekur) 」「煙突掃除 (独 kamiegen) 」と呼んだ方法である。単純に云えば心の奥底にあるものを思い出して言語化すれば症状は消失するという療法である。催眠を使う場合は催眠により記憶を呼び覚まし、再体験させることもある。 アンナ・Oの場合は口に出すことでその症状は消えたが(もっとも症状は次から次へと現れた)、しかしその「心の奥底にあるもの」が深刻な虐待、またはそれに類する外傷体験 (traumatic experience) である場合には、不用意にそれに直面するとフラッシュバックを起こして収拾がつかなくなり、逆に症状を悪化させることもある。除反応どころか再外傷体験となってしまうのである。DIDは精神障害の中で自殺企画率が高いとも云われるが、特に記憶回復、除反応を始めると増加するという報告すらある。クラフトは1988年段階でも、十分な信頼関係を築けた後に治療者が除反応的なアプローチが必要と思った場合でも、言葉を選んで環境も整え、相手の意志を尊重して、一気にではなく小出しに、分節化 (fractionated abreaktion) してそれに当たるとしていた。もちろんパトナムも同様に慎重であった。 しかし2020年現在では除反応よりも、それぞれの人格が受け持つ不安、不信、憎悪その他の負の感情を和らげ、逆に安心感や信頼感を育てていくことが重視されはじめている。ロス (Ross,C.A.) は1989年段階から除反応には慎重な姿勢を示し、1997年には除反応行わないと宣言する。1989年には除反応を説いていたパトナム自身も1997年の『解離』では、リクラゼーションにより患者の自発的治癒力を強める方向を重視しはじめた。 国内でも「外傷体験を聞き出しての除反応に治療者が夢中になるのは非治療的」と考えられている。一丸藤太郎は、「DIDであれば性的虐待などの深刻な心的外傷を受けているはずだという前提からアプローチするのは禁忌である」「心的外傷体験はできればそっと置いておきたい」という。そして細澤仁も「心理療法において、外傷記憶の想起は必ずしも必要ない」とする。しかし「除反応かレジリエンスの強化か」という問題は二者択一の関係にある訳ではなく、いずれをより重視するのかという問題である。「話をちゃんと聴く」ことと「ほじくりかえす」ことは全く別である。患者の安心感を十分に確立できた段階で、「話をちゃんと聴く」「気持ちを受け止める」という文脈の中で、患者が自から語りはじめるなら、それは十分に治療的であるとされる。「話す」ことは「放す」「解き放つ」ことに通じる。 近代医学の中心的思想であった「発病モデル」は、単純化すると人間を機械と同じと見なし、故障した箇所と原因を究明してそこを修理するという考え方である。しかし現在の内外の治療者は、それよりもむしろ支持的に接し、支え、自発的治癒力(レジリエンス)を強めるという「回復モデル」に向かいつつある。2006年にリオッタは、Dタイプを示すような養育状況が解離性障害への脆弱性を大させるというモデルを提唱しているが(「愛着理論からの視点」参照)、愛着理論の立場では、統合された自己はその子が成長する過程で獲得されるものであり、その過程が養育状況により頓挫するのが解離性障害の前提となる脆弱性であるという理解である。リオッタは、深い悲しみをもつDID患者に対して、治療者が共感的理解を提供することで、その治療関係の中でDID患者の愛着システムが活性化され、安定型(Bタイプ)の愛着を経験しはじめる。また患者は、脱価値化や自他への攻撃ということの背景には他者によって理解されたい、苦しみを癒してほしいという動機が存在していることを理解するようになる。それらによって患者は統合へ向かうとしている。現在の日本の治療者も、大筋において同じ方向を向く者が多い。
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