防衛庁(省)の天皇~事務次官4年
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「守屋武昌」の記事における「防衛庁(省)の天皇~事務次官4年」の解説
2002年(平成14年)に防衛庁防衛局長時代に発覚した情報公開請求者の個人情報リストの作成問題が起こった際に、次官レースのライバルだった官房長の柳澤協二に責任を取らせる方向に仕向けて更迭させ、柳澤が次官レースから脱落した。当時、次官レースにおいては最有力候補は防衛施設庁長官だった嶋口武彦であり、守屋は遅れを取っていたが、嶋口は2003年(平成15年)5月26日に宮城県気仙沼市沖で三陸南地震が発生した際、酒に酔って対策会議に出席したことを週刊誌に書かれたため、次官レースから脱落した。2003年(平成15年)8月、防衛事務次官に就任した。 守屋は防衛局長時代から人事に深く介入し、下部の役職の決裁より先に自分に複数の人事案を見せるよう要求したほか、下部の役職が承認するような人事案件も自身が選定する人事慣行を定着させ、防衛政策だけでなく防衛調達や制服組への人事権を強め、細部まで介入する人事構造を定着させ、それまでの学閥やノンキャリアやキャリアの区別関係なく側近を要職に抜擢する一方で自分と対立した人間を様々な理由をつけて配置転換で左遷させる(香田洋二・増田好平はその好例であった)など庁内で権勢を振るい、「防衛庁(省)の天皇」とまで呼ばれた実力者となった。 2004年(平成16年)には、守屋の次官退任及び防衛施設庁長官であった山中昭栄の次官就任が確実視されていたが、普天間基地移設問題で山中と意見対立した際、防衛庁長官だった大野功統の意向を取り付けて山中を更迭させた。他に次官候補がいないという形で定年を延長することで事務次官に留任し続け、通常1年、長くて2年といわれる官界の慣行にもかかわらず、極めて異例の4年以上にわたり防衛事務次官を務めた。 防衛事務次官としては、テロ対策特別措置法やイラク特措法の制定、長年の悲願であった防衛庁の防衛省昇格、横田飛行場航空管制権返還問題、普天間基地移設問題、厚木基地移設問題と様々な難題な防衛政策について主導的役割を果たした。 次官在任中は、額賀福志郎との関係は悪くなかったものの、石破茂・大野功統・久間章生・小池百合子ら4人の歴代防衛閣僚とは、大なり小なり軋轢があったとされる。しかし防衛政策で様々な懸案が存在する中で、様々な人脈を持ち防衛政策に通じていた守屋を辞めさせることは政治的に難しかった。防衛政務次官経験がある党内屈指の防衛政策通であり歴代2位の長期間連続在任記録を持つ石破や2度の防衛閣僚を務めた久間も守屋を更迭することはできず、逆に石破が守屋を事務次官に昇格させたり、久間が守屋の次官定年を延長して事務次官を続けさせるほどであった。 2006年(平成18年)春、普天間基地移設問題に合意したキャンプ・シュワブ沿岸部V字滑走路建設案というアイディアは、守屋の発案とされている。6月には小泉純一郎首相の訪米に同行。首相外遊に外務省以外の事務次官が同行するのは極めて稀のため、異例と報道された。 2006年(平成18年)9月、1994-1995年(平成6-7年)に防衛政策課長、防衛局長として日本への弾道ミサイル防衛システムの導入に対して多大なるリーダーシップを発揮したことが評価され「デイビッド・イスラエル賞」(BMDの推進について政治的又は技術的な側面において貢献した個人、団体に贈られる賞で10ヶ国程度の官・民代表メンバーの推薦によって決定)を日本人の官僚として初めて受賞している(過去に受賞した日本人は玉沢徳一郎、瓦力、久間、額賀。全員が防衛閣僚経験者)。 2007年(平成19年)6月に発覚した情報保全隊の市民監視問題では「防衛省設置法に基づく調査研究である」として隊を弁護した。
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