関西旅行とインド学・シナ学とは? わかりやすく解説

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関西旅行とインド学・シナ学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 01:11 UTC 版)

平田篤胤」の記事における「関西旅行とインド学・シナ学」の解説

文政6年1823年)、篤胤は関西旅行した7月22日江戸を発つ際、上京にかける意気込みを「せせらぎ潜める龍の起し 天に知られむ時は来にけり」と歌に詠んだ篤胤は、8月3日尾張国熱田神宮参詣し8月6日京都到着した自身著作富小路貞直通して光格上皇に、門人六人部節香・是香を通して仁孝天皇に、それぞれ献上している。 一方、篤胤の鈴屋訪問の報は、鈴屋門人たちのあいだで篤胤をどう迎えるかの対立生んだ。篤胤に好意的な三大考』の著者服部中庸は篤胤こそ後継者相応しく、どの門人も篤胤には及ばないとまで語ったといわれるが、多く門人露骨に篤胤を無視し、あるいは排斥した。その代表が京都城戸千楯大坂村田春門である。かれらは篤胤が古伝恣意的な解釈ほどこしていると批判し城戸は篤胤来訪妨害までしている。篤胤は京都服部中庸を含む本居門人交流機会得ており、門人たちは篤胤に関する批評の手紙を、和歌山本居宗家本居大平送った大平整理したこれら篤胤批評は、やがて人手を介して写本が篤胤に伝わり、のちに平田銕胤論評補遺加えて毀誉相半書』という名で出版した鈴屋一門後継者本居大平は、『三大考』をめぐる論争で篤胤に厳しく批判されていたが、門人一人として篤胤をもてなすこととした。訪問先立って篤胤が送った武蔵野漏れ落ちてあれど今更に より来し子をも哀とは見よ」という歌に対し大平は「人のつらかむばかりものいひし人 けふあひみればにくゝしもあらず」と返している。両者会談友好的な雰囲気行われ、篤胤はこのとき宣長の霊碑の1つ大平より与えられた。 その後伊勢神宮参詣し、ついで松阪本居春庭宣長の子)を訪れ11月4日念願宣長墓参果たした墓前に「をしへ子の千五百多き中ゆけに 吾を使ひます御霊畏し」の歌を詠んだ松阪では鈴屋本家訪れ本居春庭会談するなどして、11月19日江戸戻った文政7年1824年)、門人碧川篤眞が娘千枝結婚して婿養子となり、平田銕胤名乗って篤胤の後継者となった控えめ性格の銕胤は篤胤の活動をよく支えた。 この時期以降の篤胤には『仙翁伝』『扶桑国考』『黄帝伝記』『三神山余考』『天柱五嶽余論』などの著作があり、とりわけ道蔵はじめとするシナインド経典類の考究に力を注いでいる。文政9年1826年成立の『印度蔵志』や文政10年1827年成立の『赤県太古伝』などがその代表である。これらは日本の古典古伝承の研究フィールドとするという意味での国学概念越え出ており、インド中国古記文献に関する研究が篤胤の著述かなりの部分占めることは、他の国学者には見られないところと評されている。なお、『印度蔵志』については、天保11年1840年)、篤胤は曹洞宗総本山永平寺57世の載庵禹隣にみせており、このとき禹隣禅師は篤胤の労を称えて「東大胤居士」の法号贈ったといわれる

※この「関西旅行とインド学・シナ学」の解説は、「平田篤胤」の解説の一部です。
「関西旅行とインド学・シナ学」を含む「平田篤胤」の記事については、「平田篤胤」の概要を参照ください。

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