関西旅行とインド学・シナ学
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「平田篤胤」の記事における「関西旅行とインド学・シナ学」の解説
文政6年(1823年)、篤胤は関西に旅行した。7月22日に江戸を発つ際、上京にかける意気込みを「せせらぎに潜める龍の雲を起し 天に知られむ時は来にけり」と歌に詠んだ篤胤は、8月3日に尾張国熱田神宮に参詣し、8月6日に京都に到着した。自身の著作を富小路貞直を通して光格上皇に、門人六人部節香・是香を通して仁孝天皇に、それぞれ献上している。 一方、篤胤の鈴屋訪問の報は、鈴屋の門人たちのあいだで篤胤をどう迎えるかの対立を生んだ。篤胤に好意的な『三大考』の著者服部中庸は篤胤こそ後継者に相応しく、どの門人も篤胤には及ばないとまで語ったといわれるが、多くの門人は露骨に篤胤を無視し、あるいは排斥した。その代表が京都の城戸千楯や大坂の村田春門である。かれらは篤胤が古伝に恣意的な解釈をほどこしていると批判し、城戸は篤胤来訪の妨害までしている。篤胤は京都で服部中庸を含む本居派門人と交流の機会を得ており、門人たちは篤胤に関する批評の手紙を、和歌山の本居宗家の本居大平に送った。大平が整理したこれら篤胤批評は、やがて人手を介して写本が篤胤に伝わり、のちに平田銕胤が論評と補遺を加えて『毀誉相半書』という名で出版した。 鈴屋一門の後継者本居大平は、『三大考』をめぐる論争で篤胤に厳しく批判されていたが、門人の一人として篤胤をもてなすこととした。訪問に先立って篤胤が送った「武蔵野に漏れ落ちてあれど今更に より来し子をも哀とは見よ」という歌に対し、大平は「人のつらかむばかりものいひし人 けふあひみればにくゝしもあらず」と返している。両者の会談は友好的な雰囲気で行われ、篤胤はこのとき宣長の霊碑の1つを大平より与えられた。 その後、伊勢神宮を参詣し、ついで松阪の本居春庭(宣長の子)を訪れ、11月4日に念願の宣長の墓参を果たした。墓前に「をしへ子の千五百と多き中ゆけに 吾を使ひます御霊畏し」の歌を詠んだ。松阪では鈴屋本家を訪れ、本居春庭と会談するなどして、11月19日、江戸に戻った。 文政7年(1824年)、門人の碧川篤眞が娘千枝と結婚して婿養子となり、平田銕胤と名乗って篤胤の後継者となった。控えめな性格の銕胤は篤胤の活動をよく支えた。 この時期以降の篤胤には『葛仙翁伝』『扶桑国考』『黄帝伝記』『三神山余考』『天柱五嶽余論』などの著作があり、とりわけ、道蔵をはじめとするシナやインドの経典類の考究に力を注いでいる。文政9年(1826年)成立の『印度蔵志』や文政10年(1827年)成立の『赤県太古伝』などがその代表である。これらは日本の古典や古伝承の研究をフィールドとするという意味での国学の概念を越え出ており、インドや中国の古記文献に関する研究が篤胤の著述のかなりの部分を占めることは、他の国学者には見られないところと評されている。なお、『印度蔵志』については、天保11年(1840年)、篤胤は曹洞宗総本山永平寺57世の載庵禹隣にみせており、このとき禹隣禅師は篤胤の労を称えて「東華大胤居士」の法号を贈ったといわれる。
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