村田春門とは? わかりやすく解説

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むらた‐はるかど【村田春門】

読み方:むらたはるかど

[1765〜1836]江戸後期国学者歌人伊勢生まれ。号、田鶴舎(たずのや)など。本居宣長(もとおりのりなが)の門人幕臣小笠原家仕えた後、大阪古学歌道教え晩年水野忠邦の師となった。著「源氏新抄」「新俳諧文集」「田鶴日次記」など。


村田春門

読み方むらた はるかど

江戸後期国学者歌人伊勢生。村田彦の養子。姓は宮崎・一、名は文哉・列・並、字は玄仲。通称政之介・之進等、別号燕庵郁子園・田楽舎等。本居宣長門に入り板倉一見直樹と共に白子の三称される古学歌道唱え一家成し諸生教授した著書に『源氏新抄』『新俳諧文集』等がある。天保7年(1836)歿、72才。

村田春門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/29 14:29 UTC 版)

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村田 春門(むらた はるかど、1765年3月31日明和2年2月11日)- 1836年12月31日天保7年11月24日))は、江戸時代後期に活躍した国学者歌人である。本姓は宮崎、号は田鶴舎(多豆能屋とも)等。幼名は並樹。

経歴・人物

伊勢白子(現在の三重県鈴鹿市)の生まれ。村田橋彦の養子となり、初め江戸幕府幕臣の小笠原氏に仕えた。後に一柳に改姓し本居宣長の門人となり、大坂に移って家塾を開き、古典詠歌等を多くの門人に伝授した。

これによって、同郷の板倉茂樹、一見直樹と共に「白子の三樹」と呼ばれ、一躍有名となった。門人の一人に、後に天保の改革を執行した水野忠邦がいる。

主な著作物

  • 『源氏新抄』
  • 『新俳諧文集』
  • 『多豆毛衣』

出典

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