開村まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 13:53 UTC 版)
「吉野村 (花蓮港庁)」の記事における「開村まで」の解説
明治43年(1910年)2月9日、元チカソワン社の隣村、荳蘭(タウラン)社に移民指導所が設立され、初代花蓮港庁長・石橋亨のもとで総督府から派遣された23名の職員が任務を遂行した。台湾総督府は日本徳島県より9戸の農民を模範移民として招聘した。 移民指導所の設立と同時に、総督府では「台湾移住案内」を日本の各県に配布し、移民を募った。その募集には、「日本人としての品性を貶めないため」厳しい条件が課せられていた。 台湾に永住の意志が堅固で、農業以外の職業を営まない者 身体壮健で、他人に忌避される疾病のない者 品行方正で、前科が無く、大酒や賭博など悪癖のない者 一家を成し、家族と共に移住する者 渡航旅費の外収入のあるまでの食費として移住者2人の場合は150円以上、3人は400円以上、4人以上は1人につき50円以上を増し、現金か郵便貯金で持参できる者 勤勉で業務に励み、かつ母国人としての対面を保ちうる者 渡台した後、他の事業を兼営したり、怠惰で農業に精励せず母国人たる品位を損したり、*善良な農民とならないと認めたときは、貸し下げた土地や物品を引き揚げ、移住地を退去させる。 妻を同伴しない者は採用しない 多数移住者の仲介者となったり、また主催者としてこれを引き連れ渡台した者は採用しない 吉野村に続く官営移民村「豊田村」「林田村」でも同様の条件が課せられ、1910年から1917年までの3村の移民希望者1621人のうち条件をクリアした者は1100人だった。中でも1911年の2回目募集時は出願者702人に対し許可を得た者は173人、競争率は4.1倍だった。 一方、厳しい選考条件を通過して渡台、入植した移民に対し、総督府は手厚い保護を施した。 土地:1戸につき耕地3甲歩と宅地1戸につき1反5畝を割り当て、売渡代金は等級により指定するが、平均して1戸につき600~700円。その後は追加を割り当てられ平均して4甲歩となった。 家屋:1棟を給与し、建坪は16坪、建築費は400円 農具:大農具は貸出、小農具は個人の負担 耕牛:1頭を貸出。代金は30円 肥料:移住の年に限り、1戸につき50円以内を貸し付ける これらすべての代金は無利子の10年年賦とし、移住4年目から納付させ完済のちは所有権を与えることとした。 さらに原住民アミ族の協力を得るため、明治45年5月、第2代花蓮港庁長の中田直温はポクポク社、タウラン社、リイラウ社のアミ族3集落を統べる総頭目・チトサクと協議の上、以下の協定を取り付けた。 アミ族が現在耕作している土地は民有地として認める 蕃社(アミ族の村)にも灌漑用水を供給する 賃金は、一般の蕃人には日給10銭、頭目には20銭、勢力者には15銭を銀貨で支払う 高山蕃(タロコ族)が襲来した折は加勢する。 耕作用の牛350頭を、1頭30円で購入する。
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