銀行の退潮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 16:02 UTC 版)
1830年代初期までに、アンドリュー・ジャクソン大統領は、合衆国銀行の不正と腐敗故に、これを完全に嫌うようになった。ジャクソンは、「疑いもなく、この偉大で強力な機関がその資金力で公的役職者の選挙に積極的に影響を及ぼそうとしてきた」ことが分かったと言って銀行に調査を入れた。合衆国銀行の公認は1836年に切れることになっていたが、ジャクソンはもっと早く第二アメリカ合衆国銀行を「殺す」ことを望んだ。ジャクソンはこの銀行が政治的腐敗とアメリカの自由に対する脅威を助長するものと見なして、銀行の崩壊に強く手を貸したと考えられている。ジャクソンが大統領であるときの第二アメリカ合衆国銀行総裁はニコラス・ビドルであり、ビドルは公認期限の切れる4年前、1832年に公認延長を求めることにした。ヘンリー・クレイがその法案を議会で通すことに貢献した。しかし、ジャクソンは7月にその法案に拒否権を発動した。 ジャクソンは銀行に拒否権を発動したことに関する声明で、国の通常の人大半に共感を呼ぶと考えられる言葉遣いを行い、一方現在の銀行を支配する富裕層や海外株主を攻撃した。 ジャクソンによる銀行公認期間延長の拒否声明に対してビドルはそれを「無政府状態の声明」と撥ね付けた。マサチューセッツ州選出の合衆国上院議員ダニエル・ウェブスターは、銀行の法的助言者およびボストン支店の役員として銀行存続側であり、そのような言葉遣いは政治的道具であり、声明全体は近付きつつあるジャクソン大統領再選に向けた選挙運動の文書であると示唆した。もしそうであったのなら、ジャクソンが成功し大統領選挙ではヘンリー・クレイを破って再選された。 第二アメリカ合衆国銀行は連邦政府が規則的に預託した税収入によって繁盛していた。ジャクソンは1833年にその財務長官に対し、州銀行に連邦税収入を預託するよう指示することで、第二アメリカ合衆国銀行の生命線を痛撃した。新たに預託された銀行はジャクソンの党に対する忠誠の故に間もなく「ペット銀行」と渾名された。 1833年9月、財務長官ロジャー・B・トーニーは第二アメリカ合衆国銀行にあった連邦政府のペンシルベニア州分預託金をフィラデルフィアのジラール銀行に移した。ジラール銀行はスティーブン・ジラール銀行の後継銀行だった。スティーブン・ジラールは第一アメリカ合衆国銀行の公認が1811年に更新されなかったときにその資産を購入していた。ジラールは新しい銀行をスティーブン・ジラール銀行と改名した。ジラールは米英戦争の時に1813年の戦時貸付の大半を含み、主要な融資家となった。第二アメリカ合衆国銀行でも当初の組織者であり、主要株主だった。ジラールは1841年に死去した。 第二アメリカ合衆国銀行は間もなく資金を失い始めた。ニコラス・ビドルはその銀行を救うことが絶望的となり、その全ての貸付を引き上げ(支払を要求した)、銀行の新しい貸付を止めた。このことで銀行の多くの顧客を怒らせ、ビドルに圧力を掛けて以前の貸付政策を再開するよう迫った。 反ジャクソン派の何人かはその怒りを政治行動に向けた。ウェブスターやクレイの指導もあって、1833年にホイッグ党を結党した。もしホイッグ党と反ジャクソンの国民共和党が1836年の議会選挙で多数派を得ることができてジャクソンの2回目の拒否権を無効にすることができれば、銀行公認を更新することができた。しかし、この勢力は拒否権を無効に出来るだけの議席を得られなかった。このこととそれ以前数年の経済恐慌のために、連邦議会はジャクソンに対して銀行公認更新法案を新たに提出しなかった。 第二アメリカ合衆国銀行にはほとんど現金が残って居らず、1836年に公認期限が切れたときにフィラデルフィアの普通の銀行に変わった。5年後、元第二アメリカ合衆国銀行は破産した。この銀行の凋落に加えてジャクソンが正金回収執行令(国有地の購入代金は金または銀で払うこととした)を発したことで1837年恐慌に繋がり、マーティン・ヴァン・ビューレン大統領時代の主要問題となった。
※この「銀行の退潮」の解説は、「第二合衆国銀行」の解説の一部です。
「銀行の退潮」を含む「第二合衆国銀行」の記事については、「第二合衆国銀行」の概要を参照ください。
- 銀行の退潮のページへのリンク