釣針地区
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 00:21 UTC 版)
5月1日、トアンタン42と並行して、より大規模な南ベトナム軍のトアンタン43作戦(MACV側ではロック・クラッシャー作戦)が始まり、まず36機のB-52爆撃機が「釣針(英語版)」地区(Fishhook)南部に沿って774トンの爆弾を投下し、これに続いて1時間の集中砲撃、さらにもう1時間の戦術爆撃機による集中攻撃が行われた。10時00分、米第1騎兵師団、米第11機甲騎兵連隊、南ベトナム第1機甲騎兵連隊、南ベトナム第3空挺旅団はカンボジアのコンポンチャム州に突入した。シューメーカー任務部隊(第1騎兵師団長補佐ロバート・シューメーカー(英語版)麾下)は、米軍兵士10,000人および南ベトナム軍兵士5,000人とともに、昔からの共産主義の本拠地を攻撃した。この作戦は装甲部隊を活用して州内奥地まで進行し、そこでヘリ輸送の南ベトナム空挺旅団およびアメリカ空中機動部隊と連携して行動した[要出典]。 侵攻作戦には激しい抵抗が予想されていたが、侵攻が始まる2日前に北ベトナム軍/ベトコン部隊は西への移動を始めた。5月3日の時点で、アメリカ兵の死傷者は戦死8人と負傷32人と、作戦の規模に対して小さい死傷者数であるとMACVは報告した。カンボジア領内3kmで米第11装甲騎兵隊が経験したような、遅滞行動を伴うまばらで散発的な交戦のみが行われた。北ベトナム軍は、戦車砲撃と戦術的空爆で撃たれるためだけに小火器とロケット弾で発砲しているようなものだった。戦火が止んだ時、この戦闘で死亡した北ベトナム軍兵士は50人を数え、対して米軍側の戦死者はわずか2人だった。 5月上旬からベトナムに帰投する6月30日まで、第1大隊/第7騎兵隊は「釣針」地区にいて、そこでは期間中ずっと猛烈に激しい戦闘が行われた。アメリカ軍の損失は甚大であり、現場で少なくとも半分の戦力を維持するだけでも、全部隊が大規模な要員交代に頼らざるを得ないほどだった。完全な編成でカンボジアに派遣されたある中隊では、隊員のほとんどが戦死するか負傷して後送され、6月30日の時点で残っていたのはわずか9人だったという。「釣針」地区における戦功から、この部隊には個人のシルバースターと同等の勇猛部隊章(英語版)が与えられた。 北ベトナム側は迫りくる攻撃に十分な注意を払っていた。侵攻中に捕虜となったB-3前線本部から3月17日に発せられた指令は、北ベトナム軍/ベトコンの軍勢に「戦線から離脱して、反撃をしないこと...我々の目的は、可能な限りの戦力温存である」と命じたものだった。この侵攻の当事者でありながら、アメリカ政府からもサイゴン政府からも自国の緊迫した侵攻に関する情報を知らされなかった、ロン・ノルの一団だけが驚いたとされている。彼自身はラジオ放送で侵攻のことを知り、米国大使館の総領事と電話会談をしてそれが事実だと確認することになる始末だった。 アメリカ軍部隊による唯一の通常戦闘は、シハヌークトレイルの終点であるスヌオルの町で5月1日に起こった。米第11装甲騎兵連隊の分隊と援護ヘリコプターが、市街および飛行場へと接近する際に、北ベトナム軍の砲火に見舞われた激しい抵抗を受けた。アメリカ軍は後退して航空支援を要請し、2日間にわたって市街を爆撃した。この戦いの最中、第11機甲騎兵連隊の司令官である准将ドン・A・スターリーは手榴弾片を受けて負傷し、後送されている。
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