道路事情の変化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 14:31 UTC 版)
「大野川 (松本市)」の記事における「道路事情の変化」の解説
前川渡経由で大野川まで自動車が乗り入れられるようになったのは、1929年(昭和4年)であった。さらに、鈴蘭までの村道ができたのは、1940年(昭和15年)である。この道路は幅員4.5mであった。1958年には、三本滝から乗鞍岳までの道路建設が着工し、工事は陸上自衛隊が行い、5年後に完成した。1964年には、畳平まで、長野県側からのバス運転が始まった。このバス運行開始に依らずとも、徒歩による登山はもちろん盛んに行われていた。 1969年に、ダム工事による付替道路工事が完成した。それまでの道路は低い場所を通っていたので、旧前川渡橋とともにダムに水没した。 『安曇村誌』から、少し詳細にわたるが、山奥の大野川における道路事情として興味深いので、記事・年表の趣旨を転記する。 1724年(享保9年) - この年に編纂が完成した『信府統記』は、松本から高山に至る飛騨道として本道と山道を記述している。山道は、松本-橋場-稲核-入山-角ヶ平-祠峠-大野川-安房峠を経る、旧鎌倉街道筋に当たるもので、ここを通した越中との交通交易が多かった 1790年(寛政2年) - 幕府の街道政策として、飛騨から外に出る街道で重複すると見られた14の筋が廃され、その1つに野麦街道と重複するとされた前項の飛騨道があった。明治維新まで続く 1849年(嘉永2年) - 大野川村の役人が、松本藩の許可なしに檜峠道の改修を実施し、藩庁の咎めを受ける 1865年(慶応元年) - 上高地に入るために牛が通れる道として、島々背後の風窪を登り、しっぺい沢の峰を通る道が開通。それまでは島々谷川渓谷を通っていたので、洪水による不通事故に見舞われることが多かった。このことから、この時代には、上高地に入るための道は、奈川渡・前川渡を通っていたわけはないことが知れる 1878年(明治11年) - 飛騨街道のうち、熊ノ沢-広河原-砥畑入口-砥畑岩場-砥畑上橋-小日向橋-小日向坂-水久保(水窪)-前川橋-黒洞頭(くろんぶら)-根木ノ沢上尾根-白骨-セバ谷-障子ヶ瀬-安房峠 の改修工事をした 1911年(明治44年) - 前川橋を架け替える 1917年(大正6年) - 里道飛騨街道(奈川渡-大野川-白骨-安房峠)の大改修工事を着工する 1929年(昭和4年) - 大野川まで自動車が入る、中の湯まで乗合バスが入る(この時期からは、旧鎌倉街道筋を通らず、梓川沿いルートになる) 1940年(昭和15年) - 大野川-鈴蘭間に幅員4.5mの村道が開通 1951年(昭和26年) - 鈴蘭までバスが乗り入れる 1958年(昭和33年) - 三本滝-乗鞍岳頂上間の道路建設に着工。1963年に完成 1964年(昭和39年) - 林道乗鞍岳線が県道に編入され、長野県側からのバス運行が始まる 1966年(昭和41年) - ダム建設による水没に伴う奈川渡以遠の付け替え工事(国道158号・長野県道84号乗鞍岳線)に着工する。1969年完成
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