逮捕から収監・脱獄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 07:09 UTC 版)
「ロナルド・ビッグズ」の記事における「逮捕から収監・脱獄」の解説
一味は逮捕され、彼は有罪の判決後にワンズワース刑務所で服役することとなった。1965年7月8日に同刑務所を脱走、パリで顔の整形手術を施し同年英国海外航空の飛行機でオーストラリアのシドニーに逃れて数ヶ月暮らした後、1966年にはアデレードに逃れそこで妻と2人の子供に再会した。1967年にはインターポールの探偵が彼を探し回っていることを知った彼はメルボルンに逃れ郊外のブラックバーンノースに家を借りた。1969年にロイター通信の報道でメルボルンにいることを突き止められた彼はその5ヵ月後にメルボルン港からパナマを経由してブラジルのリオデジャネイロに逃れた。 1971年に彼の長男は10歳で交通事故により亡くなった。1974年にデイリー・エクスプレスのコリン・マッケンジーは彼がリオデジャネイロに潜伏している情報を得て取材班を結成。続いてスコットランドヤードからも刑事が向かったが犯罪人引渡し条約の関係及び彼の子を妊娠していたナイトクラブのダンサーだったガールフレンドの存在で逮捕されることはなかった。これは当時「ブラジルで生まれた子供の父親が外国人である場合、その父親は身柄を拘束されない」という法律に引っかかったためである。彼は仕事をすることもなく毎日バーに現れては午後10時に帰宅した。彼は家庭でバーベキューを開いて観光客相手に列車強盗の話をしたがこれはあまり人気がなかったと言われている。 ドキュメンタリー制作のために彼がイギリスに帰るのではないかといった噂が何度も流れた。 1978年にパンク・ロックバンドのセックス・ピストルズのドキュメンタリー映画、ザ・グレイト・ロックンロール・スウィンドルとジュリアン・テンプルの映画でボーカルとしてレコーディングを行っている。これらの歌はギターのスティーヴ・ジョーンズ、ドラムのポール・クックがブラジルで収録に参加した。「No One Is Innocent (Cosh the Driver)」と「Belsen Was a Gas」に収録された。 1981年、彼は誘拐されてバルバドスに連れて行かれた。誘拐犯は彼をイギリスに引き渡そうとしたがバルバドス政府の反対でイギリスに引き渡されることなくブラジルに帰国した。1982年に彼の息子がBalão Mágicoの一員となり人気となったがこのグループは1986年に解散した。 1991年、ドイツのバンド、ディ・トーテン・ホーゼンの"Police On My Back"、"Carnival In Rio (Punk Was)"でボーカルとして歌った。1993年にはアルゼンチンのパンクバンドの3曲を歌っている。
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