車両新造事業への転換
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 04:59 UTC 版)
「総合車両製作所新津事業所」の記事における「車両新造事業への転換」の解説
国鉄分割民営化後、JR東日本は国鉄時代に引き続き鉄道車両の改造・検査・修繕を中心に業務が行われていたが、1994年(平成6年)10月、車両の計画から設計、製造、運用、保守、廃車後のリサイクルに至る「車両トータルマネジメントの実現」を目標に、新津車両所を電車の新造工場に改組転換し、当時の東急車輛製造からの技術供与により電車の製造を開始した。 設立当初は東急車輛製造で製造している車両を当所でも生産する方式だったが、技術力の強化を目的に209系950番台(のちにE231系900番台へ改番)では設計段階から東急車輛製造と共同で製造を手掛けた。 JR東日本が自社で製造工場を所有したのは、JR東日本初代会長、山下勇の基本哲学「どんな会社であれ、技術が会社発展の原点である。技術なくして会社の発展はありえない」から、会社として技術力を高めることとモノ作りの重要性を得るため、山下の強いリーダーシップにより実現にこぎつけたものである。当初の計画では年間200両の生産を目指していたほか、特急形車両の生産も計画されていた。修繕工場から製造工場への転用のため、建物や機械の整備など約180億円の費用を要した。 設立の背景 総合的技術レベルの向上 プロダクトライフサイクル保有による車両改良 経営資源(設備・要員)の有効活用 車両新造工場の計画にはJR東日本自社だけではできず、三井造船(生産設備)、東急車輌製造(技術提携)が協力している。1993年(平成5年)3月の新津車両所での検査修繕終了後、作業員はJR東日本大井工場、大宮工場、大船工場や、新津車両製作所発足に協力した三井造船・東急車輌製造の製造工場に出向し、製造技術や溶接技術の習得を行った(工場名・社名は当時)。 JR所管時にこの工場で落成した車両の車内ステッカーに表記されている「新津車両製作所」の文字は、山下勇の筆がそのまま用いられている。 生産ピッチは 3日で1両を生産していたが、段階的にピッチを上げていき、2001年(平成13年)5月17日以降は 1日1両(稼働日)の生産ピッチとなり、年間平均250両、最大262両の生産体制となっている。
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