豊栄丸時代とは? わかりやすく解説

豊栄丸時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/27 15:53 UTC 版)

コンパニーア・デ・フィリピナス」の記事における「豊栄丸時代」の解説

1941年昭和16年)に太平洋戦争勃発後、「コンパニーア・デ・フィリピナス」は日本軍によって鹵獲され、「豊栄丸」と改名し民間船として使用された。復員庁による戦後の調査によれば船主丸正海運船舶運営会代行機関として運航実務を担う運航受託者三光汽船となっている。1943年昭和18年8月23日付で、民間船舶のまま乗員海軍軍属待遇となる海軍指定としての指定受けた戦争末期1945年昭和20年)に至り、「豊栄丸」は朝鮮済州島からの民間人避難使用されることになった1945年当時日本軍本土決戦意図した決号作戦計画していた。日本植民地であった済州島北九州攻防のための重要拠点として守備隊強化図られる一方朝鮮半島守備隊である第17方面軍朝鮮総督府協議し済州島住民23万人のうち老人女性子供5万人を朝鮮半島本土疎開させる方針決めた。すでに朝鮮半島沿岸でも日本海上交通危険な状態にあり、1945年4月14日には済州島翰林港沖にアメリカ海軍潜水艦「ティランテ」が侵入してモシ02船団の「壽山丸」と護衛の「能美」・第31海防艦撃沈同年5月7日には済州島木浦港間の定期旅客船「晃和丸」が空襲撃沈されて民間人多数死亡したほか、山辺1999年によれば同年5月13日にも済州島翰林港で空襲潜水艦攻撃により護衛艦4隻と輸送船1隻が撃沈される状況だった。それでも、済州島軍事輸送行った帰り空船利用して民間人疎開させることが計画された。 1945年7月1日疎開船第1船に選ばれた「豊栄丸」は、軍人軍属のほか半島本土へ疎開する民間人450人と郵便物搭載して済州港から木浦目指し出航した生存者少年回想によれば7月3日木浦近くの子安島仮泊した。この回想によれば護衛艦2隻が随伴しており、アメリカ軍機の空襲受けたという。7月3日夜に豊栄丸」は木浦への最終行程入ったが、入港目前にした珍島東方北緯3422東経12625分 / 北緯34.367度 東経126.417度 / 34.367; 126.417の地点沈没した沈没原因船舶運営会資料に基づく『日本商船隊戦時遭難史』や駒宮七郎著作によれば機雷との接触であるが、アメリカ海軍公式作戦年誌によれば空襲となっており、敵潜水艦魚雷命中したという生存者回想もある。乗船者のうち、少なくとも輸送人員280人と乗員8人が死亡した1977年昭和52年)に『京都新聞』が報じたところによれば、五百数十人の乗船者のうち生存者は約80人だけであったという。「豊栄丸」の沈没により、済州島からの民間人疎開断念された。

※この「豊栄丸時代」の解説は、「コンパニーア・デ・フィリピナス」の解説の一部です。
「豊栄丸時代」を含む「コンパニーア・デ・フィリピナス」の記事については、「コンパニーア・デ・フィリピナス」の概要を参照ください。

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